香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

主婦によせて

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⇑ 柿を買い、秋を味わう。甘い。

   その表現できない美味さに神の理解を感じる。

 

僕が最近、突然、神、神、と書きまくるものだから、

 

ドン引きされた読者の皆様から、

 

神の想い、神の理解、について質問されることが多い。

 

中には、神という言葉に、宗教やカルトっぽさを感じて、

 

無意識のうちに拒絶反応を起こす人もいる。

 

神は、あまりに多方面で支配の象徴とされるため、

 

できれば僕も使いたくないのだが、それでもやはり、

 

〝神〟以外の表現が見当たらないので仕方がない。

 

 

〝神の愛〟というと、どこか日常生活から解離した、

 

キリスト教などの教義上の概念のような印象を受けるが

 

実際には常にここに在り、誰もが感じているものである。

 

 

例えば、ううん…、そうだな、

 

僕のブログの読者には、専業主婦の方が多いので、

 

主婦の方を例に、神の理解を説明してみることにする。

 

 

主婦というからには、当然、旦那がいるわけなのだが、

 

これまた当然、かつては(笑)その旦那を好きになり、

 

多かれ少なかれ、今でも愛しているからこそ、毎日、

 

旦那に料理を作ったり、旦那のパンツを洗ったりして、

 

結婚生活を続けていられるのだと思われる。

 

 

しかし、結婚して子供も生まれ、何年、何十年、も経つと、

 

その〝大好き〟という〝想い〟は生活の中へと埋没し、

 

いつしか、相手のちょっとした言動が許せなくなってくる。

 

 

せっかく作った料理にマヨネーズをかけた、

 

わたしはキャリアを捨てて専業主婦になったのに、

 

主婦のわたしを小馬鹿にするような一言を吐いた、

 

こっちは体調が悪いのに、いたわる素振りもない、

 

といった些細なことにムッカーッ、とくる。

 

⇓僕がどんなに専業主婦に憧れているかを綴った記事⇓

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だが、現実の出来事に意識の表面は波立ちながらも、

 

根底には〝あなたが大好き〟という想いが流れており、

 

それ故に、ムカつきながらも旦那のパンツが洗えている。

 

 

ただし、その根底に流れている〝大好き〟な想いは、

 

情緒的な感覚であるため、言葉では表現しづらく、

 

分析して報告しろ、と言われても絶対に不可能だ。

 

そして、毎日色々な事があって忘れがちだけれども、

 

確かに根底に流れている相手への想い、

 

愛しているという感覚こそが、

 

神の想いであり、ハートの感覚である。

 

 

たとえ日常生活で、旦那にムッカーッ、となったとしても、

 

それでも底辺に流れている旦那に対する〝愛の感覚〟

 

を思い出し、そこへと立ち返ること、

 

これが、神を想い出す、ということになる。

 

 

僕たちは神から分離している、と思い込んでいるので、

 

神が大好き、とは、とてもとても恐ろしくて言えないが、

 

旦那になら、いろいろ不満はあるけれど、まあ好き、

 

くらいは思える。

 

でも、日常では裏に隠れているけれども

 

それでもあなたが好き、という感覚こそが、

 

神を愛している感覚であり、

 

また、神が自分を愛している感覚である。

 

 

と、ここまで来ると、もうお分かりかと思うが、

 

なんのことはない、本当は、旦那が神だったのである。

 

そのことを認めて、ムッカーが来るごとに、

 

その根底を流れる神の想い(大好き)へと立ち戻ること、

 

旦那の中に神を観ること、それが〝赦し〟である。

 

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このように、論文に書いて証明はできないけれど、

 

確かに感じている旦那に対する愛は、

 

神に対する愛だった、と自覚されると、

 

今度は、その〝ハートの感覚〟が、

 

あらゆる兄弟たちに波及し始める。

 

 

例えば、何かにつけマウンティングしてくるママ友や、

 

ウザいお姑さんや、反抗期の子供、などが仕掛けてくる

 

きいぃーっ、となるような状況に遭遇した際、

 

普段は忘れているが、根底に流れている旦那に対する

 

あの〝好き〟な感覚が神の感覚であったと思いだし、

 

その感覚をあらゆる場面に適用し、

 

当て嵌めてゆくことで、あらゆることを赦せるようになる。

 

 

と、ここまで来て、なんで主婦でもない男のお前が、

 

主婦目線でこんなことを語っているのか、と、

 

お叱りを受けそうであるが、

 

パートナーはそういう意味でとても力強い愛の象徴だ、

 

ということで…、おやすみなさい。

 

 

 

 

泣きの土曜日

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⇑ 昨日仕事から戻ってみると、お手伝いのチョイ姐が、

   紫の百合を活けておいてくれた。

   オランダのユリなのだという。

 

なぜか、ここ最近、

 

めっきり聖霊兄貴が登場しなくなったなと思ったら、

 

以前は別人格のように見えていた聖霊が、

 

いつしか、自分が聖霊だったことに気づき、

 

それ以降、聖霊を〝別物〟にしなくなった。

 

なんか、うまく説明できないのだが、

 

聖霊と同じように、裁きを取り下げ、世界を愛で見よう、

 

とするようになってからは特に聖霊との一体感が増した。

 

 

なので近頃は、赦しに於いても、

 

裁きを取り下げた後は、直接神に向かう。

 

また、自分が聖霊と同じ存在だった、

 

という自覚が持てて初めて、

 

直接神に触れてゆくことができるのだ、と気づいた。

 

 

その代わり、と言ってはナンであるが、

 

ここのところJ兄貴に問いかけることが多くなっている。

 

 

「こんなん出てきましたけど、どんなもんですかいな。」

 

「さっきのこの赦しは、もうここまでが精一杯ですねん。」

 

「この件に於いて、自分には何ができますやろ?」

 

 

まあ、ひとり呟き、のような感はあるが、それに対し、

 

Jは決して、それは違いますよ、とは言わない。

 

その時々で、最も適切なアドバイスを与えてくれる。

 

それは、テレビを通じてのこともあれば、

 

何気ない兄弟との会話を通じてのこともある。

 

または、強烈な〝閃き〟として伝えられることも…。

 

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まあ、そんな感じで、今日は土曜日、

 

 階下の通りでは、デモ隊に警察が放水する騒ぎがあり、

 

サイレンの音がけたたましく鳴り響いているが、

 

僕はといえば、昨日のうちに、

 

食料や、ワインや、お菓子などをわんさか買い込み、

 

お籠り三昧の週末を過ごしている。

 

 

不死という… ⇒ ワークブック ⇒ テキスト ⇒ 瞑想

 

と、午後いっぱい奇跡講座三昧の時間を過ごした。

 

テキストの『赦しの夢』の項を読んでいるうち、

 

兄弟達のことが、有り難くて、有り難くてたまらなくなり、

 

二度ほど号泣した。

 

その後、部屋中に神の気配を感じて、ううっ、となる。

 

トドメは、テレ朝のフィギュアスケートの試合を見ていて、

 

ザギトワ選手がくるくる回っているのを眺めているうちに、

 

ああ、神が舞っている、となり、またまた、泣けてきた。

 

 

な、なんじゃ、これはっ。

 

一体、自分はどうなってしまったのか? 壊れたのか?

 

これではまるで、法悦女子ならぬ法悦男子、やんけ!

 

⇓ 2014年、まだ神の理解が入る前の僕がそこにいた! ⇓

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珠海出張から戻って以降、

 

兄弟を通じて、裁いている自分に気づき、

 

それを取り下げ、そこから神にアクセスしたあと、

 

裁きの夢を、赦しの夢(神の理解)に置き換える、

 

という赦しを実践して数週間、マジで世界が変わった。

 

キャー、ヤッター、ステキーッ!とばかりに、

 

神がどわーっと食い気味に押し寄せてくる。

 

 

不変で永遠なる神の世界の方が実存で、

 

この世界は本当に無かったことが理解され始めると、

 

恐怖が癒され、平安が復活する。

 

僕の場合、まだまだ、行きつ戻りつ、波があるけれど、

 

こうして進んでいくのだな、と実感している。

 

 

神に気づく

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ああ。

 

しゅ、しゅ、首里城が…、も、も、もえてしまった…!

 

 

ニュースを見て、

 

首里城は、本土決戦を経験した沖縄の方たちの、

 

復興のシンボル、心の支えだった、と初めて知った。

 

先月沖縄を旅した際、また今度来た時に見ればいいや、

 

と、首里城には行かなかったことが悔やまれる。

 

 

その一方で、

 

この首里城全焼のニュースからは多くのことを学んだ。

 

 

僕は仕事柄、出張で多くの場所へ赴くが、

 

今後は、ただ行って、仕事して、帰ってくるだけではなく、

 

訪問先の土地の歴史も少しは勉強しよう、と決めた。

 

 

それから、次でいいや、もやめることにした。

 

言おうかな、行こうかな、やっとこうかな、と思ったら、

 

迷わず実行するようにしよう。(できる範囲でだけど…)

 

なぜなら、僕もいい年齢だし、

 

本当に次は無いかもしれないから…。

 

 

また、カタチの世界に永遠はない、ということも学んだ。

 

台風にしろ、地震にしろ、人生のハプニングにしろ、

 

どんなに頑張っても、最後は必ず取り上げられる。

 

なので僕はもう、カタチの世界は信じない。

 

永遠でなければ実在ではなく、よって世界はない。

 

また、永遠を求めるとは、神に気づくことであり、

 

神に気づくとは、普段、当り前に見えているもの、

 

聞こえているもの、感じているものが、実は神であった、

 

と認識することである。

 

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僕達は普段の生活の中で、

 

私のスマホ、去年買い変えたパナソニックのテレビ、

 

隣に住んでる田中さん一家、コンビニのシュークリーム、

 

と、あらゆるものを認識しながら暮らしている。

 

「ああ、これがわたしの、ス・マ・ホ、なんだぁーっ!」と

 

いちいち感動の叫びを上げつつ生きている訳ではない。

 

そして、神も、そこにスマホがあると気づいているのと

 

同じレベルで、ここに在る。

 

別の言い方をすれば、スマホがあると気づくと同時に、

 

神にも気づいている。

 

 

それはまた、〝わたし〟についても同じことが言える。。

 

年を取るにつれ、見かけや内面がどんなに変化しようと、

 

自分という人生をずっと見てきた不変の何かに気づくこと

 

それが、神に気づく、ということである。

 

 

よく考えてみると、生まれてから今日までに経験した、

 

様々な〝私〟の物語も、ひとたび認知症にでもなれば、

 

すべて無と化すような、実体のないものであり、

 

湧いては消えてゆく雨雲のようなものである。

 

 

なので、物語の中を生きている自分ではなく、

 

物語に気づいている不変で永遠の自分に目を向ける。

 

それが神を観る、聖霊を観る、ということとなる。