香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

実体を見よ!

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ここ一週間、ずっと、神、神、神、で過ごしてきたせいか、

 

今朝、起きた瞬間 「あっ、今、自分は神の中にいる。」

 

と、突然、深い理解の中で目覚めた。

 

うまく説明できないのだけれど、それは何て言うか、

 

何かを通して神を見るのではなく、

 

自分はもうすでに1ミリもずれることなく神の中にいて、

 

自分も含め〝ここ〟がそのまま神そのものの世界で、

 

愛そのものだった、という理解、そして何より、

 

この神の世界こそが真の自分だった、ということを、

 

突然思い出したように理解したという感じである。

 

 

仕事も、人間関係も、全て神の中で行われており、

 

パソコンも壁も天井も、本当は神そのものだった。

 

それはパソコンでもなくスマホでもなく神だったのだ。

 

なので今後は、創作活動も、仕事も、日常生活も、

 

ここが神の中であることに気づくために行われる。

 

そして、神に気づいているのが自分なのではなく、

 

気づかれている愛の想念こそが真の自己だった、

 

と理解した瞬間、あらゆるものが神になった。

 

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自分は神の中にいるという感覚はやがて、

 

神の想念そのものへと移行してゆき、誰を見ても、

 

何を見ても、それらは全て罪のなさに輝いている。

 

 

なぜか景色が、くっきりはっきり、鮮明に見える。

 

また、ごく普通のカフェに並ぶコップでさえ、

 

その並び方がアートっぽく、秩序立って見えるのだ。

 

そして、その奥に真の自己である霊を発見する。

 

 

それから、また人々からガン見され始めた。

 

電車で向かいに座っている人が、

 

エレベーターで乗り合わせた人が、

 

レストランで向こうの席に座っている人が、

 

何かに驚いたように僕の方を凝視してくるのだ。

 

 

神にガン見されているのだ、と思った。

 

 

なんか、

 

この肉体の自分は、神を映す鏡なのだな、と思う。

 

例えば、自分の体が鏡でできているとして、

 

自分の体に映る神を見て、おお、自分に中に神がいる、

 

ひょっとして、俺って神だった?と勘違いしてしまった。

 

本当は、

 

鏡に映っている〝現物〟の方を観るべきなのに…。

 

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そんな感じで、今日は、マッサージに行ってきた。

 

全身マッサージされながら、神を感じていた。

 

マッサージの快感に気づいているのではく、

 

神の想念に気づいているのだ、と…。

 

 

お正月休みも明日で最後となるが、

 

今回の休暇は家で本当にのんびり過ごせた。

 

今年は自分にとっても大きな転換期な気がすので、

 

今のうちに鋭気を養って、新たなシナリオに備えるのだ!

 

 

他者の中の神

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⇑ チョイ姐行きつけの花屋さん

   最近はクロユリを買ってくることが多い

 

常に、何者かになりたい、何かになろうとする概念を、

 

意識は自我を通して具現化させる。

 

結果、自我の象徴としての体が生じ、死が偽造された。

 

 

なので、この世界で赦しを実践しようとしても、

 

自我を維持させようとする機能が作用するため、

 

必ずどこかで、肉体の〝わたしが〟赦そうとしてしまう。

 

 

それを避けるには、真の自己は赦している自分ではなく、

 

赦そうとしている対象の中にあることを思い出すことだ。

 

どういうことかというと、テーブルや田中さんを見た時、

 

自分はテーブルや田中さんに気づいているのではなく、

 

本当は神に気づいているんだということ、

 

そして、それらに気づいている〝わたし〟ではなく、

 

気づかれたもの(テーブルや田中さん)側が神であり、

 

相手側こそが本当の自分なんだと思い出すことである。

 

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身体を持って生まれてきてからこれまで、ずっと、

 

身体の中で何かを見て、考え、話しているのが私で、

 

目の前であれこれ不本意なことをしている方が他者だ、

 

と思ってきた。

 

しかし、本当は逆で。他者側に真の自己がある。

 

なので、

 

誰かを嫌っているのは、神を嫌っているのであり、

 

誰かを攻撃しているのは、自分を傷つけている。

 

また、モノを乱暴に扱ったり、食物を粗末にすることは、

 

自分を乱暴に、また、粗末に扱っているのである。

 

 

そのことに気づいたとき、僕はこれまで他者のことを、

 

なんてぞんざいに扱ってきただろう、と愕然となった。

 

かつて、恋人がしてくれた愛情のこもった親切の数々を、

 

〝だって、オレ、愛されてるもんねー。〟と、

 

何の感謝も示さず、偉そうな態度で受け取っていた。

 

また、実家に帰るたびに、小学生の姪っ子が、

 

兄ちゃん一緒に遊ぼう、と、やってくるのがウザくて、

 

いつも来る前に外出をして雲隠れしていた。

 

それなのに、僕の誕生日を覚えてくれていて、

 

真っ先に、お誕生日おめでとう、のメッセージをくれる。

 

 

そう思うと、これまで僕は、どんなに自分を粗末に扱い、

 

神からの愛を無視してきたかを思い知らされる。

 

神の愛は瞑想をしたり、修行をして得るものではなく、

 

目の前に当たり前に存在しているのだ。

 

 

パートナーから、同僚から、友人から与えられている、

 

神の愛(真の自己)を改めて気づきなおすこと、

 

例えば、

 

日頃、旦那に対して不平不満ばかり言っているけれど、

 

実は、大変な思いをして給料を入れてくれている。

 

そんな、当たり前の愛に気づいてゆくことが、

 

神に気づくことであり、真の自己に気づくことである。

 

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⇑ みずほ銀行香港支店があるK11のモール 

 

ハートを認識して悦んでいる自分が真の自己ではなく、

 

悦びを体感して、神に気づいたときに起こる、

 

あっ、わかった、という理解の中に在る普遍の想念、

 

それこそが、真の自己であり霊(スピリット)なのだ。

 

 

じゃあ、悦びを体感するにはどうすればいいんだよ、

 

という話になるのだが、それが感謝と笑顔だ。

 

 

誰かの冗談に大笑いした、笑顔で挨拶を交わした、

 

相手から受けた小さな親切に心からの感謝を伝えた、

 

といった、笑いの中に在る愛と喜びを見るのだ。

 

または、

 

なんで私ばっかり、なんであなたばっかり、と思うとき、

 

それを、私のために、あなたのおかげで、に変換する。

 

どんなにムッカーとする相手でも、その陰には必ず、

 

感謝すべきアレコレが隠されているもので、

 

その小さな愛に「ありがとう」と言えたき、

 

神からの「愛してるよーっ!」を受け取ったことになる。

 

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で、今日は散髪に行ってきた。

 

正月なので、スタイリストさんの勧めに従い、

 

超絶ゼロフェードにしてもらった。

 

次回は、刈り上げの部分に十字のラインを入れる予定。

 

多分、社長に見つかったら怒られると思われ…。

 

 

私、なに悪いことしたん?

www.youtube.com

⇑   これってまさに私と聖霊の会話そのもの

     このお母さんこそが僕たちの姿だ。  

     映像劣悪ですがご容赦下さい 

 

元日の香港は数十万人規模のデモで幕を開けた。

 

今回、僕もみんなと一緒に歩いてみた。

 

途中、勇武派の光明同盟が募金を募っていたので、

 

僕も100ドル(1500円)寄付した。

 

見れば、たくさんの大人たちが寄付をしている。

 

500ドル札を寄付している人も少なくない。

 

ほとんどの香港人が民主化を望んでいるのに、

 

実際には、どんどん真逆の方向へ進んでいる。

 

自我の世界って本当に奇妙な矛盾に満ちている。

 

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そんな景色の中に神を見いだすうち、

 

愛が欲しい、が、愛しているよ、に変換されてゆく。

 

もう、何が起こっても起こらなくても、ここは神の中だ。

 

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日本映画専門チャンネルで、以前このブログで紹介した

 

『ママリン87歳の夏』を再放送していたので、また見た。

 

その時、認知症である母と娘の間で交わされる会話が、

 

狂った自己と、真実のみを語る聖霊とのやり取り

 

そのものであることに気づいた。

 

〝刑務所、人殺し、泥棒、罪を犯した自分、捕まる…。〟

 

母が発するこれらの言葉を、娘は即座にきっぱりと、

 

食い気味に否定してゆく。

 

そして、家出、徘徊、迷子は罪ではないと告げる。

 

 

僕達もまったく同じ会話を聖霊と交わしている。

 

つくづく僕達って、重度の神認知症なんだなあ、と、

  

この映像を見ながら感慨を新たにした次第である。

 

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⇑ 彼らはまだ大学生なんだ
 

 

 

僕たちは意識以前のこと(実存)を全く覚えていない。

 

神のことや霊(スピリット)のことや天国のことも知らない。

 

それでも、自分は神に属する存在だ、とは勘づいていて、

 

それで、何かの拍子に〝普遍で永遠な神の波動〟

 

が上がってきたりすると、それが何かを忘れているため、

 

得体のしれないものと錯覚して恐怖を覚え、

 

これらの神の想念をあたふたと封印してしまう。

 

それは例えば、

 

明日やらなければならない仕事の心配や、、

 

子供の受験のことや、両親の介護のことなど、

 

目の前の現実に没入することで、

 

得体の知れない神への恐怖を見ないようにしている。

 

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↑ 募金箱が次々お札でいっぱいになってゆく

 

自我は真実(神)を忘れるために幻想を使い、

 

聖霊は真実(神)を思い出すために幻想を使う、

 

とはよく言ったもので、自分を動揺させたり、

 

苦痛をもたらす現実を目の当たりにしたとき、

 

見えているものに真実はない、と見抜き、

 

相手から〝愛している〟という声を聴く。

 

それが、正気への第一歩となる。

 

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↑ 今回のデモは110万人が参加した。

   香港の人口の7人に1人が参加したことになる 

 

喜んでいることが、神を知るということである。

 

たとえ、相手がどんな行動をとっていようとも、

 

相手から受け取った愛してるのメッセージを、

 

ありがとうという感謝で返すことが、

 

相手を神として認識することである。

 

そうやって、神として認識された相手こそが、

 

霊(スピリット)となり、本当の自己として顕現される。

 

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