香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

シュワシュワ

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今日は朝三時半に起き、社用車で空港へ向かった。

 

金曜の香港便は、

 

朝6時半の便を逃すと、次は夕方にしかないため、

 

どうしても、早朝に起きることになる。

 

おまけに空港内は、クリスマス休暇を終えて香港へ戻る

 

フィリピン人のアマさん達でごった返していた。

 

チェックイン→イミグレ→荷物検査→搭乗、と、

 

いくつもの長蛇の列に並び、ようやく機内の席に座るや、

 

生も根も尽き果てた僕は、即行爆睡モードに入った。

 

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もう、あまりに眠くて、神もクソもない。

 

上げ潮のように上がってくる睡魔に包まれる。

 

それでも機内の喧騒で、完全熟睡には至れない。

 

そんな半眠半醒状態の中、あるイメージが去来した。

 

 

サイダーの瓶の底から湧き立つ泡のように、

 

思考だけがシュワシュワと立ち上がっては消えてゆく。

 

思考だけがあり、物質も自分も感情も他者もない。

 

 

どういうことかと言うと、 

 

あと数分で、この飛行機は離陸するかも、という思考、

 

会社に着いたら税務申告書を送付せねば、という思考、

 

留学時代に北朝鮮のピョンヤンへ行った、という思考、

 

ハノイでベトナム語を勉強していたので、

 

隣の席のベトナム人達の会話が聞き取れる、という思考

 

私は日本人で、独身で、香港在住の星谷周作という思考

 

ただ思考だけがシュワシュワと立ち上がっているだけ。

 

何から何まで、どこからともなく、突然、ふっと、

 

そういう思考が立ち上がってきているだけなのだ。

 

自分が何かを喋って、相手も何かを喋って、それに対し、

 

自分が怒ったり笑ったり、反応していると思っているが、

 

自分だと思っていたのも、サイダーの泡でしかない。

 

ただ勝手に起こっていて、自分では何も起こせていない。

 

ていうか、私は星谷周作、という思考があるだけなので、

 

個人の私はどこにもない。

 

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簡単にまとめると次のようになる。

 

・心の中のどこを探しても、主体となる自分がいない。

 

・勝手に浮上する思考のみで星谷周作が作られている。

 

・泡のような思考自体には実体はない。

 

・私が実体のない、思考だけの存在なのであれば、

 

 他者も同様に、思考だけでできているはずだ。

 

瓶の底からシュワシュワ湧き出るサイダーの泡同士が、

 

シュワシュワシュワシュワ会話しているだけだ。 

 

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自分も他者も、過去も未来も、時間も空間も、無だった。

 

自分が乗っているこの飛行機だって、これは飛行機だ、

 

という思考が自分の中に立ち上がったからこそ、

 

飛行機を認識できている。

 

20代の時、ピョンヤンで日本赤軍の人に会った、

 

という思考が、今、ふっと立ち上がってきたからこそ、

 

心の中で、それは確かに起こった、と体感できいる。

 

ふっと立ち上がらなければ、その体験は無であり、

 

自分が意図的にそれを思い出すこともできない。

 

要するに、過去もない。

 

シュワシュワ立ち上がる実体のない思考だけで、

 

これまで自分は生きてきたことになる。

 

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飛行機が唸りを上げて離陸したあとも、

 

自分が消えた状態は続いていた。

 

「なんや。

 

 自分は誰かと会話してると思っているけど本当は、

 

 サイダーの泡同士がシュワシュワやってるだけやん。」

 

 

「じゃあ、実在はなんやろう。僕ってなんやろ。

 

 それで変わらずここに存在する、何かがある感じ。」

 

 

次の瞬間、

 

本当の自分は、いつも変わらずここに在る神だった、

 

という理解が入り、安堵感が満ちてきた。

 

これまで自分は、泡ぶくの方を自分と思い込み、

 

同じ泡ぶくの他者とすったもんだしてきたけれど、

 

そんなものはなく、あるのは神だけだった、

 

そして、その神こそが真の自己なのだった。

 

 

なのでもう、いま、ここに在る神に抵抗せず、

 

起こっているように見えるシュワシュワを、

 

シュワシュワのまま消えてゆかせることにする。

 

シュワシュワを掴んで、

 

「なんでオレってこんなんなんや!」

 

「なんで、こんなことになるんや!」

 

とやる必要もない。

 

 

というわけで、

 

3泊4日のフィリピン出張を終え、家に戻ってきた。

 

マジ眠い。おやすみなさい。

 

 

存在のすべて

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⇑ これはホテル?それともマンション?

 

まだフィリピンにいる。

 

今日は終日、経理の女の子の席の隣に座り、

 

新キャッシュフローの入力をレクチャーして過ごした。

 

神が入ってからというもの、細かい数字の計算が、

 

とんと苦手になってしまっている僕だが、

 

それでも何とか、入力を完了させることができた。

 

夜は、工場長と焼き肉屋で焼き肉を食べ、

 

早々にホテルへ戻り、神ベッドで休んだ。

 

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いま、ここに在る神に抵抗しない。

 

これが神だと認めるなんて、そんなの嫌だあー、と、

 

見えているものを〝わたしのスマホ〟にしたり、

 

〝ダメな自分〟にしたり〝嫌な人〟にしている。

 

もう、神であることだけを受けいれ、それに抵抗せず、

 

どんな、居心地の悪い思いが浮かんで来たとしても、

 

ただ起こるに任せ、見過してやっていれば、

 

それは必ず神へと戻ってゆく。

 

 

いま、ここには、普遍で不変の神の想い(愛)しかない

 

ことだけを見ていると、とても心が平安になる。

 

他人に見えているが、実は神だった周囲の人々が、

 

自分を傷つけたり、悩ませたりするはずがない、

 

というような境地になる。

 

もし、そういう思いが立ち上がってきても、それは、

 

勝手に湧いてきている想いであり自分のものではない。

 

 

それから、他者の反応にクヨクヨしなくなる。

 

 

相手から受けるどんな行為やリアクションに対しても、

 

神からの「愛してるよー」アピールでしかないと分かる。

 

別の言い方をすれば、誰からどう思われたっていい、

 

嘘の自分でみんなから好かれるくらいなら、

 

本当の自分で嫌われた方がマシ、という感覚になる。

 

何か言われて落ち込んだら、それも起きていることが、

 

ただ起きているだけなので、ただ見過ごす。

 

すると、本当は神の想いだったことが理解できてくる。

 

赦しは何もしない、ってこんな感じなのかな、と思う。

 

 

なんか、年末年始の休みで、全然変わってしまった。

 

別段、何をしたわけでもないのに、不思議だ。

 

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 ⇑ それは中国の豪華客船だった!

       まるでノアの箱舟みたい 

 

というわけで、

 

明日一日頑張れば、香港に戻れる。

 

来週後半から休みに入るので、月末までの仕事を、

 

来週中にセッティングしておかなければならない。

 

怒涛のSWATな一週間の幕開けである。

 

あ、それから、帰国前に、

 

AMAZONでいろいろ買い物をしたり、

 

歯のホワイトニングの予約も入れたりと、

 

もうひと踏ん張り!

そんなこと思っちゃダメダメ!

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休み明けで、いきなりフィリピンのスービックにいる。

 

このまま金曜日までフィリピンでお仕事なのだ。

 

今回は、新しいキャッシュフローシートを導入するため、

 

財務の女の子たちに入力の仕方などを教えに行く。

 

 

というわけで、なんか、近頃、

 

自分が神を映す(霊である自分を映す)鏡になったよう。

 

 

神というひとつの解釈だけを通してすべてを観ていると、

 

これはセブパシの飛行機、あの人は工場の誰々、

 

という解釈からくる世界が消滅し、ただ神だった、となる。

 

また、人と話している時や、一人で何か考えている時も、

 

自分の心に湧いて出る、誰々さんはこうでああで、とか、

 

あの時、こんな事があった、あんな事があった、といった

 

批判的な思いが上がってきたとしても、

 

「あ、そんなこと思っちゃダメダメ!」ではなく、

 

それを〝個の自分の想い〟として掴まず、

 

ただ、現れては消える雲を見るように見過していれば、

 

飛行機や、工場の誰々が〝神だった〟と同様、

 

個の想いもやがて無と期し、神の実存だけとなる。

 

 

要するに、神という一つの解釈があるだけなのだ。

 

それだけになると、たとえ病気で苦しんでいたとしても、

 

失敗に見えるようなことをして、アタフタ対処していても、

 

今自分は神の中におり、神だけが在ることを思い出して、

 

今現れている神に抵抗せずにいる(赦している)ことで、

 

個の自分が、こうなってほしい、という思いとは関係なく、

 

自然になるようになってゆく。

 

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例えば、僕は毎月、香港支社の出勤状況と稼働日数を、

 

東京本社の総務へ報告しているのだが、

 

先月の稼働日数を18日と報告したところ、

 

計算してみると17日だったので修正したいのですが、

 

と、総務の女性からスカイプが入った。

 

だが、念のために確認すると、やはり18日が正しい。

 

それで、その趣旨を返信し、この件はそれで終わった。

 

まあ、こういった、どちらが間違ってます的なやり取りは、

 

日常業務では毎日のように発生するのだが、

 

〝起きてない〟から〝神の中でしか起きていない〟

 

に変換されると、これは総務の女性とのやり取りではなく

 

神(真の自分)とのやり取りのように感じられ、

 

その中に深い〝愛〟を覚えて感謝が湧きおこるのだ。

 

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⇑ 空港へ迎えに来てくれた運転手とランチ
 

 

クリスマスが明けたばかりの工場は、

 

閑散期ということもあり、どことなくゆったりとしている。

 

気温も日中が27度、夜も23度くらいと、過ごしやすい。

 

そうやって、近くの食堂でビールとピザの夕食を済ませ

 

夜8時ごろ、ホテルの部屋に戻ってきた。

 

前回と同じく、神ベッドのある部屋でくつろぐ。

 

たくさん重ねた枕に半身を起こして横たわり、

 

膝の上にパソコンを置いて何やかやしながら、

 

やがて、神の心地よさ(神の想い)の中で眠りにつく。

 

 

多分、また、意識が突然概念の方へバーンと振れ、

 

自我と同一化してびゅんびゅんするかもしれない。

 

それでも全然オーケー、自分は神の中にいて、

 

1ミリもそこから離れたことなどないのだから。

 

そして、神とびゅんびゅんしていることにする。

 

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