香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

自分へ潜る

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👆 〝一本スジの通った男〟になった!

  (一本じゃなくて、2本入ってるやん!

   分け目も入れたら3本やん!)

 

これはあくまで僕の個人的見解だが、

 

コース兄弟の人はどちらかというと、

 

〝自分〟という言葉に抵抗を抱く人が

 

多いような気がする。

 

 

肉体の私なんて無い、個の自分なんて無い、

 

神だけが真実で分離した個は幻想だ、

 

が基本ベースにあるため、個の私が、

 

判断したり、解釈をしたり、感じたりするのは

 

自我であり、故にそれは無だ、とする。

 

なので、赦しの実践においては、

 

自分で解釈せず聖霊に訊く、

 

自我の囁きや思いを聖霊に明け渡す、

 

起こっている事や、湧き上がる感情を、

 

ただ見過ごしてゆく、というふうに、

 

自分でやらない、明け渡す、ただ見過ごす、

 

ということをとても大切にしている。

 

 

究極の真理から見れば正しいと思う。

 

これに対して一切の妥協をしない、

 

という点において、僕も同じスタンスだ。

 

 

しかし、

 

赦す、聖霊に委ねる、他者の中に無辜性を観る

 

肉体は無い、世界は無い、神は在る、を、

 

真に体感として〝理解〟できるためには、

 

まずは、自分の内部が神の愛で満たされ、

 

自分が愛そのものだったことに気づくことが

 

先決だと思っている。

 

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少し前までの、僕の赦しの実践としては、

 

これは起こってない、私はない、

 

と、聖霊に明け渡し、見過ごす前に、必ず、

 

起こっている事や、湧き上がってきた感情を、

 

一旦、きちんと見て感じるようにしていた。

 

 

個の自分が幻想であれ何であれ、実際に、

 

肉体を持ってこの夢の世界を生きているのには

 

何らかの理由があるはずであり、

 

その〝言い分〟を理解してやらない限り、

 

分離を決めた張本人である意識の〝自分〟が

 

〝戻ろう〟とするはずがない、と思ったからだ。

 

 

だって、

 

実践されている方ならお分かりだと思うが、

 

様々な不安感や、恐怖や、動揺が湧いた時、

 

形而上学通りにやっても、そうおいそれとは

 

見過ごせないし、明け渡せない。

 

これはもう訓練していくしかない、

 

と思いつつも、愛が見えてこないのだ。

 

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そこで、これってなんかおかしい、と思った。

 

自分がやっている実践には、自分に対する、

 

愛や、優しさや、感謝が無いことに気づいたのだ。

 

要するに、赦そうとして自分を責めている。

 

 

なので僕は、個の自分は無い、という、

 

無い方を注視するのではなく、それよりも、

 

在る方(神)へ意識を集中することにした。

 

自分の背後に広がる愛の流れに気づけば、

 

個の自分など無い、と自然に理解できるからだ。

 

無限の神側の視点に立てば、肉体も、

 

愛の反映の映像に過ぎないと分かるので、

 

私など無い、とバシバシしなくても、

 

先ずは、無限の全体の一部である自分に、

 

優しくすることに集中していればいい、

 

という意識になった。

 

 

そこから、劇的に僕の内部が変わり、

 

神が常にあることを感じられるようになった。

 

👇今日は、宇宙列車の乗り換えの話だよ!

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ストップ!自分責め!

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👆 ドンキに積まれたカプリコの山

  香港でカプリコが買える日が来るなんて…

 

昨日も書いたが、

 

今、この瞬間に在る神に抵抗するのを止め、

 

今、ここに存在するままの自分でOKだ、と

 

どんな自我の囁きが聞こえてきても無視して

 

ハートのエクスタシーの流れに任せていると

 

〝人を非難する〟

 

ということが無くなってしまった。

 

 

事件を起こし、テレビで非難されている人、

 

上手く立ち回って責任逃れをしている人、

 

何でそんな事を言われなきゃならないんだ、

 

と言い返したくなるような理不尽な攻撃など

 

普段の日常生活の中で「なんだコイツ」と

 

言いたくなるような人たちに遭遇して、

 

実際、なんだコイツ、と思ったとしても、

 

結局のところ、最後は、

 

「ああもう、この人のそういうところが好き!」

 

「やっぱりそれでいいよ。オーケー、オーケー」

 

「あははー、ウケるーっ!」

 

に行きついてしまう。

 

 

そこで気づいたのが、

 

自分の心の中が愛で満ちていると、

 

人を非難する気持ちが湧かない、

 

ということである。

 

自分のことをちゃんと愛して、

 

自分に優しく寄り添ってやれていると、

 

人のことも愛で観れるようになるのだ。

 

  

逆に言えば、

 

自分を十分に愛していない状態、つまり、

 

様々なことで自分を責めている状態では、

 

他者を愛として観たり、赦したりすることなど、

 

絶対に不可能だ、ということである。

 

 

これはある意味、

 

「わたしは決して自分を愛しませんっ!」

 

と自分で宣言していながら、

 

「聖霊に委ねます、私は何もしません。

 

   兄弟を愛で見れるようにしてください」

 

と言っているようなものである。

 

自分を責め、ないがしろにしているのに、

 

そんな自分はいません、聖霊兄貴に委ねます、

 

と言っているのと同じで、兄貴にしてみれば、

 

それって、ぜんぜん委ねてないじゃん」

 

という話である。

 

 

なので、先ずは、兄弟を愛で云々、の前に、

 

自分を愛することが先決だ、と思うのだ。

 

なぜなら、他人を責めるのはよくない、

 

という想いの裏返しで自分を責めているので、

 

自分責めをしなくなれば、自分の中が癒され、

 

自然と他者の中に、

 

自分の愛の反映が顕われてくる。

  

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「何でこんなことを言われなきゃいけないんだ!」

 👉 おまえは正しい。ムカつくのは当然だよ

 

 

「俺、また、緊張して不安感で一杯になってる」

 👉 緊張して何が悪い。俺は俺だ。

   まずはコーヒーでも飲んで落ち着こう。

 

 

「あの人に比べてわたしは…」

 👉 ダメならダメで結構、人と比べて、

      自分を決める、なんて卑しい事はしない!

 

 

こんな感じで、頭の中で寄り添うだけでもいい。

 

どんなことがあっても、どんな手を使っても、

 

自分を責めない、と決心すること。

 

本来自分の中に在る愛の流れに気づくために

 

自分(聖なる自分)を、きちんと愛してやるのだ。

 

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圧(お)されて、逝く!

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時短勤務は今日までとなり、

 

来週からはまた9時-18時の通常勤務に戻る。

 

午後4時に帰れる最後の金曜日、ということで、

 

早速、マッサージに行ってきた。

 

 

僕は基本、肘や手の関節などは使わず、

 

必ず指だけで指圧をしてもらっている。

 

肘や手の甲で押されると、ツボに当たらないし、

 

擦られるような感じで皮膚がヒリヒリするのだ。

 

しかし、指だけの指圧は、

 

マッサージ師にとって、

 

指への負担がとても大きいのだという。

 

なので、いつもチップを弾み、ひいきにしている

 

おばさんマッサージ師さんにやってもらうのだが

 

今日はその人が休みだったので、仕方なく、

 

仙人みたいなおじいさんにやってもらった。

 

 

で、この人がすごかった。

 

ちゃんと指圧を勉強した人なのだろう、

 

ツボを軽く、ぐりぐりと圧されるだけで、

 

細胞に波動のような感覚が広がってゆく。

 

様々な部位を押されたび、

 

そこに気持ちよさの渦が立ち上がる。

 

 

これはもう、今、この瞬間の気持ち好さを

 

味合わないと損だ、とばかりに、

 

指圧される部位に集中する。

 

しかし、体がリラックスしてくるにつれ、

 

次第に眠くなってきて、気が付けば、

 

最後の15分くらいは夢の中だった。

 

 

マッサージって、すっごくスピ的で、どこか、

 

ヨガとかと、通じるものがあるような気がする。

 

自分の存在を確認していく行為、というか、

 

自分(神)に気づいていく儀式のようで面白い。

 

 

それに、それぞれの部位に加えられる

 

刺激から立ち上がる気持ちよさを

 

ちゃんと味わおうとすればするほど、必ず、

 

今、この瞬間に集中していなければならない。

 

さもなければ、すぐに、思考が浮遊し始め、

 

今、この瞬間の気持ちよさから離れてしまう。

 

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多分、僕たちは、

 

日常でも、これと同じことをしているのだろう。

 

起きている事や考えていることに邪魔をされ、

 

常にここに在る歓びの流れをスルーしている。

 

 

なので、日常のあらゆる場面で立ち止まり、

 

今、この瞬間に在る神に抵抗せず、

 

リラックスしながら、

 

背後の無限に開いていることで、

 

ハートのエクスタシーの流れに気づいていける。

 

そして最後は、これが神の愛の想いであり、

 

自分はその愛そのものだったことに気づくのだ。

 

 

というわけで、

 

なにはともあれ、リラックスをして、

 

背後側の〝無限のひとつ〟に開き、

 

〝幸せな歓びの流れ〟に身を任せている。

 

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 まずは、

 

神の子である自分を愛することである。

 

なぜなら、

 

自分を愛さずに責めてばかりいると、

 

〝自分が〟責めると決めている状態で、

 

兄弟を真に愛することなどできない、

 

と思うから…。

 

 

👇 更新したよ! 

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