昨日は奇妙な一日だった。
土曜日の夕方、僕は、ふとした思いつきで、
玄関にあった1メートル四方ほどの姿見の鏡を外すと、
寝室のベッドの飾り板の前に立てかけた。
次にその鏡の前に胡坐をかいて座ると、何を思ったのか
僕は突然、鏡の中の自分と会話を始めたのだ。
「年下の奴からタメ口きかれたらムカつくの当然だよな」
「あんな言い方されたら誰だって傷つくに決まってる」
「あの時に僕を庇ってくれたあの人、どうしてるかな」
まるで他の誰かと、普通におしゃべりでもするように、
鏡に映る自分の瞳を凝視しながら語り掛ける。
もちろん、こんなこと、やろうと思ってやってない。
やがて、会話は自分自身との対話へと移行していった。
「いままで君の言うことに耳を傾けなくてごめんな」
「それどころか、僕は君を傷つけてばかりいた」
「もう、僕は君への(僕への)抵抗を止める。君と共にいる」
もう、自分が誰に語り掛けているのか分からなかった。
自分と対峙しても、最初は一言も発せられなかったが、
慣れてくると、いままで自分に言いたかったことが、
怒涛のようにこみあげてきてきた。
心の中で思うのではなく、実際に声に出して言った。
その方がいい、と直感したからだ。
遮光カーテンを引いて寝室が薄暗かったせいもあるが、
鏡の中の自分の輪郭が青白く光って見える。
と、もう一回り大きな人型の輪郭が立ち上がった。
あっ、僕と共に旅する光の存在だ、と思った。
夢に出てきた、あの彼に違いない。
彼はいつも僕と共にいて、あらゆる手を尽くし、
この夢の世界で苦しんでいる僕を助けようとしている。
なのに、生まれてこのかた、僕はそんな彼を無視して、
自分勝手の限りを尽くし、結果、全て失敗していた。
1時間くらい自分と(本当の自分と?)話していた。
なんでこんな行動を取ったのか自分でも謎である。
僕なんかより、何倍もスピに詳しい読者の方なら、
「ああこれって、あのミラーなんちゃらメソッドね」
となるのかもしれないが、僕は何も知らずにやった。
で、深夜、小腹が空いたので、
ワイングラス片手にウインナーを炒めていた時、
突然〝巨大な有難さ〟がこみあげてきて、
気が付けば僕は、床にへたり込んで号泣していた。
この瞬間の感覚を説明するのは難しい。
もう、ただただ、自分が有難く、兄弟が有難く、
大好きなこの人も、小憎らしいあいつも、
みんなみんな、自分の中で愛の光を放っていた。
しばし、有難うーっ、と叫びながら思う存分泣き続けた。
この時ほど、1人暮らしでよかったと思ったことはない。
もう、自分を全肯定して生きよう。
なぜなら、自分を全肯定して生きることが、
神を全肯定して生きることだと確信できたから…。
ただしそれは、決して、
〝個の自分〟を全肯定する、ということではない。
自分の夢に〝反映〟されている神の世界、
愛としての全兄弟を肯定する、という意味である。
大好きなあの人、小憎らしいあいつ、恐れの対象、
過去の自分が、赦されるために(全肯定されるために)、
他者となって、今の自分に会いに来ている。
だから、彼らは全て〝わたし〟の心そのものである。
僕はもう、人を憎むことはないだろう。
同時に、これでやっと本当の赦しを始める態勢が整った。
と、そんな出来事から一夜明けた日曜日の午後、
一ケ月ぶりに、トレーナーのもとでリアル筋トレをした。
一ケ月以上のブランクがあるということで、トレーナーも
負荷の少ないメニューを組んでくれていたにも関わらず、
もう、辛くて死ぬかと思った。
というわけで、
今月17日ごろにコロナ終息宣言が出そうな香港である。