👆 桜ノ宮公会堂
家の近くにこんなレトロな建物があったなんて!
もういたる所に〝大好きーっ!〟が満ち溢れている。
まるで世界が〝愛してるー!〟と叫んでいるみたい。
もう本当に、石ころからも「好き」と言われている感じ。
よくミュージカルなんかで、道行く人たちが、突然、
主人公の周りで踊り出したりするシーンがあるが、
普段、街の中を通り過ぎてゆく人たちが、
僕に何かあったら、すぐに駆けつけて助けてやろうと、
素知らぬ顔でスタンバっている、そんな風に見える。
ああ、このまま行ったら、マジでやばいかも…。
愛が溢れる、とか言うと、
じゃあ、殺人などのニュースを見ても愛なのか、
と聞いてくるヤカラがいるが、答えはイエスだ。
例えば、これはあくまで僕の場合だが、
子供を虐待死させた父親のニュースを見たとき、
「お前も同じように虐待されて死んだらええねん!」
と怒りを露わに罵りながらも、大好き、が満ちている。
どういうことかというと、起きたことの表面だけを見て、
解釈をこねくり回す世界とは全く別の次元で、
目を見張るような、愛の采配が行われていることを
智っているので、そのままで何の問題もない。
なぜなら、それがいいことか、悪いことかなんて、
夢の住人である僕達には決してわからないからだ。
この世界はなんて残酷なんだ、と思うような出来事も、
どうしようもないクソ野郎、と思うようなヤツも、
兄貴からすれば、壮大な愛の意図を以って、
自分の前に出現させているのかもしれない。
結局、そいつをクソ野郎と決めつけているのは
自分でしかない。
そう言うと、そうか、決めつけてはいけないのか、
この人も愛なんだ、と、見方を変えようとしてしまうが、
そうではなく、クソ野郎のままで完璧なので、
なにもしなくていい、ということが言いたかった。
クソ野郎のままで〝愛してる〟でオーケーなのである。
だからこそ、そんなクソ野郎とも、
取っ組み合いの大喧嘩ができてしまう。
そう、
喧嘩ができるのは、愛し合っている証拠である。
ああ、こんなことを書いていると、
また、愛が湧き上がってきて、
あの法悦女子のチコちゃんの様になってきちゃった。
そういうわけで、
神の大好き、に理屈なんかない、ということで…。
おやすみなさい。