👆 京都の鴨川の〝鴨〟
〝スマホが見えた⇒私のスマホだ⇒機種が古い⇒
買い替えたいけどお金がない⇒惨めだ⇒
それに比べてあいつは給料多いし⇒嫉妬… 〟
今どき、
こんなベタな発想展開をする人もマレだと思うが、
これって、最初はスマホが見えただけである。
なのに、思いだけがどこまでも発展していっている。
そして、この思いの連鎖を現実だと思っている。
〝紫色の液体を飲んだ⇒ワインや⇒酸味がある⇒
どこのワインや⇒チリか⇒598円か⇒安いな⇒
まあ598円やったらこんなもんか⇒しゃーない〟
ワインを飲んで酸っぱい味がしただけである。
しかし、思いはそれについて色々うんちくを語り出す。
何かを見たり、味わったりしたあとに、
何かを思い始める、それ〝以前〟の様子、
そこには、眼に見えた通りのスマホの形がある。
そこには、舌が味わった通りの酸っぱさがある。
これと同様に、
思えるという機能にも〝思える以前〟がある。
自分のスマホを見て、機種古いなあ、買い替えたい、
でも金がないなあ、惨めや、と言葉にする以前の感覚
モヤモヤしたような、きゅーっとなるような、
言葉で形容できない〝感じ〟があるはずである。
そしてそれが、ハート(天国の空気)の感覚である。
非二元や禅といった〝悟り系〟のスピでは、
そう思えているなら思えているだけ、
ただそうであるだけ、といった、
〝静寂〟がゴールのように語られるが、
ふっと思える以前の〝感覚〟があるはずだ。
別の言い方をすると、何かを見たり、聞いたり、
味わったり、匂ったり、皮膚で体感した瞬間、
あ、スマホだ、あ、救急車のサイレンの音だ、
あ、ワインの味だ、あ、運子の匂いだ、あ、寒い、
と言葉で思う前に、言葉にはならない、
〝それそのものの感じ〟を感じているはずだ。
その言い表せない〝感じ〟をちゃんと観る。
それが神を直視する、ということである。
不安な感じ、怖い感じ、おいしいという感じ、
また、さらに付け加えるならば、
なにこれ?という感じ、幸せーっ、という感じ、
気持ちいいー、という感じ、
なんていうものも、本当は〝無い〟。
全ては同じひとつの〝感じ〟しかない。
それが、父(神)の感じ、である。
そして、自分と思っているものも、本当は、
〝感じ〟そのものでしかなかったのだ。