香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

気づいてテンパる

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今日の夕方遅く、みずほ銀行の担当者を訪ねた帰りに、

 

みずほ銀行が入っているビルの展望台へ行ってみた。

 

チムサーチュイイーストにある〝K11(イレブン)〟は、

 

有名な建築家によってコーディネートされた、

 

超スタイリッシュなビルで、ビルが丸ごと芸術作品、

 

フロア全体にアロマのよい香りが漂っている。

 

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シックにライトアップされた展望台には、

 

身体を横たえられるクッションがいくつも配置され、

 

幾組ものカップルが摩天楼を見上げながら話している。

 

僕も空いているクッションに身を横たえ、

 

しばし、流れているヒーリング音楽に耳を傾けつつ、

 

ぼーっと放心状態で過ごした。

 

 

風が心地よい。摩天楼も美しい。檸檬のような甘い匂い。

 

今、ここに在る神の平安と愛の流れに身をゆだねる。

 

今晩は何を食べようか、明日はあれして、これして…、

 

という思考にさえ抵抗せず、そのまま流れるに任せる。

 

自分は今、神の中にいるのだな、と思いながら…。

 

そうすると、なんだか、何を見ても有難くなってきて、

 

怒涛の大好きーっ、が溢れてきて、ちょっと泣いた。

 

 

その後、自宅のあるコーズウェイベイへ戻った。

 

途中、アイスクリーム専門店 Via Tokyoで、

 

生クリームソフト〝CREMIA(クレミア)〟を発見!

 

日本のショッピングモールでよく売られているやつで、

 

なつかしさに駆られ、ひとつ買って食べた。

 

濃厚なのにくどくなく、甘すぎず、まさに神の味であった。

 

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👆 味はホンモノだが、コーンが日本のCREMIAと違う。

 

今は、出張がないので、仕事も落ち着いているが、

 

以前は、やることがたくさんありすぎてパニクッたり、

 

真っ赤に焼けた炭のようになってパソコンを睨んでたり、

 

明日の会議の事で憂鬱になったりすることがよくあった。

 

 

そんなとき、昔の自分なら、

 

神から離れて幻想に埋没している自分に嫌悪し、

 

〝もう、こんなんいやや。早く神の平安に戻りたい〟、

 

と、必死で今の状況から逃げ出そうとしていたが、

 

〝何をしている時でも神の中〟が入ってしまった今では、

 

パニクったり、焦っていること自体に法悦を感じている。

 

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仕事でも何でも、何かから逃れたい、と思っている時、

 

その何かは〝神〟であり神から逃れたいと思っている。

 

 

テンパりながらやっている仕事に対する〝焦り〟、

 

攻撃されるのではないか、という〝恐怖〟、

 

あいつ、ムカつくーッ、という〝怒り〟、など、

 

今ここに在る神に抵抗せず、その思いの中に在ることで

 

本当はそれらが神の想いだったことに気づいてゆく。

 

神だけが実存であり、それ以外は真実でないのなら、

 

仕事でテンパっていようが、恐怖でガチガチでいようが、

 

全てが神でなければおかしいことになる。

 

 

そして、今、ここに在る焦り、恐怖、いら立ちに抵抗せず、

 

それらを神として受け入れてゆくと、不思議なことに、

 

なぜか、そういった状況が実際に消えて行ったりする。

 

(👆 消えていかないこともあるのであしからず…)

 

現実を変えたいという自我から変わるのではなく、また

 

状況は変わらないが見え方が変わる、というのでもなく、

 

単に、当然のように、普通に現実が変わってしまう。

 

(👆 変わらない時もあるのであしからず…)

 

考えても見てほしい。

 

赦されている神の子が、苦しみながら神に戻るなんて、

 

それこそウソだろう。 

 

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離れたい、というその想い自体が神への抵抗であり、

 

逃れたい、と思っているその対象こそが神だったと、

 

気づきながら、仕事をし、家事をし、生活するのだ。

 

 

認知症の僕の父親が、よく母親を泥棒と勘違いして、

 

「俺の金、返せーっ!」と怒鳴ったりしているが、

 

要は、これと同じ勘違いを、

 

僕たちは、神に対してもやっているということである。

 

 

自分は重度の認知症だった。

 

しかし、重度の認知症であることに気づいた時点で、

 

それはもう正気だ、ということである。

 

 

 

ラッキーッ!でいいじゃん

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コースの学習者が、赦しを実践し、神に繋がってくると、

 

幻想の世界が聖霊によって優しい絵に差し替えられる。

 

本当に世界が優しく、愛そのものに感じられてくるのだ。

 

 

具体的に言えば、

 

これまで大嫌いだった人が、大好きな人になったり、

 

苦手だと思っていた人が、自分の味方になってくれたり、

 

自分がやりたいと思っていたことができるようになったり、

 

と、人生がとても愛と感謝に満ちたものになる。

 

 

しかし、奇跡講座の勉強会やリトリートで、

 

「赦しをしていると世界が愛そのものになりました。」

 

なんてシェアをすると、間髪入れずに発せられるのが、

 

私たちは、外の世界をよくするために、

 

コースを学んでいるのではないんですよ、という一言だ。

 

 

ごもっともである。

 

僕たちは、この夢の世界を終わらせ、

 

父が待つ故郷へ永遠に帰還するために学んでいる。

 

それには、

 

この夢の世界を放棄することが必要になってくる。

 

しかし〝神が在る〟だけが真実だと体験するにつれ、

 

嫌でも、夢の現実がよくなるのもまた事実である。

 

そして、その幸せを天国の神の愛の反映として、

 

素直に受け取り、歓んでいるのが赦した状態なのに、

 

そうはならず、そんな世界は無いんですよ、と、

 

自我の世界を否定するその延長線で、

 

そこへ反映されている神までもを無いものにしてしまう。

 

まあ、そこには、学習者が自我に警戒しなくなり、

 

他の引き寄せスピなどと混同してしまうことを警戒した、

 

教師の〝親心〟あるのかもしれない。(!笑!)

 

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僕は、

 

お金がたくさん入ってきた、最高の恋人に出会えた、

 

仕事で大成功を収めた、など、現実が良くなったら、

 

「やったあー、ラッキー、神様、ありがとう!!」

 

くらいの軽い気持ちでいていい、と思っている。

 

現実が良くなったその結果に対してラッキーなのではなく

 

お金が入って嬉しい、という、いま、この瞬間に感じる、

 

幸せな〝想い〟を、神の愛としてフォーカスしている。

 

そして、この幸せな思いに抵抗しないでいると、

 

それが呼び水となって神の愛がわわわ、と延長される。

 

 

それになにより、まだ先があるんですよ、なんて、

 

野暮なことを言わなくても、何が実存で何がそうでないか

 

コース兄弟なら、深いところではちゃんと解かっている。

 

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赦しは、辛さや苦しさの中で成されるものではない。

 

辛さや苦しさの中では、何も赦せない。

 

なぜなら、つらい、と感じてしまった時点で、

 

無いはずの苦しみを実在化させてしまっているから。

 

 

神の愛を知ったいまなら断言できる。

 

たとえほんの少しでも、

 

辛い、と感じながらする赦しは、自我だ。

 

 

 

 

 

ずっとそばにいる

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今日は、定時きっかりに仕事を終えた。

 

夜、買ってきた叉焼をつまみにマッコリを飲みながら、

 

WOWOWシネマで『ツナグ』という日本映画を観た。

 

その中で主演の松坂桃李が樹木希林相手に呟いた、

 

「僕の目の前からいなくなった大切な人たち。

 

 ただ僕の目には見えないだけで、

 

 彼らは、今も、ずっとそばにいる…。」

 

というセリフに涙があふれた。

 

まあ、あらすじは検索していただくとして、

 

全編を通し、切なく、泣ける映画であった。

 

原作の小説も読みたくなったほどだ。

 

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👆 映画『ツナグ』より。大野いとちゃんが神すぎる!

 

僕はどちらかというと、視覚的なものから愛を感じ、

 

神に繋がってゆくタイプなので、赦しの過程で出てくる、

 

一瞬黙る、一瞬沈黙するの意味がよく解からずにいた。

 

しかし、聴覚的な赦しとはこういうことなのかな、と、

 

今日、腑に落ちた瞬間があった。

 

 

事務所の上の階のフラットで内装工事が行われていた。

 

ドリルで壁を削る、ガガガ、という音が癇(かん)に障る。

 

常に騒音がある訳ではなく、忘れた頃にガガガガと来る。

 

ずっとうるさかったらまだしも、仕事に集中している時に、

 

突然、ガガガ、と来るので、ドキッとして心臓に悪い。

 

 

そして、

 

静寂 👉 ガガガ 👉 ドキッ 👉 再び静寂、

 

を繰り返すうち、あることに気づいたのだ。

 

静寂があってガガガがあり、ガガガがあって静寂がある。

 

静寂とガガガは表裏一体なのだ、と…。

 

そして、ガガガの次のドキッ、が神の想いである。

 

 

静寂というベースの上に、ガガガガが生起している。

 

全ての音は、

 

静寂の中から起こり、消え、再び静けさへと戻る。

 

青空に雲が起こっては消えてゆくのと同様、

 

あらゆる物音、声、言葉は、静寂をベースに存在する。

 

全ての喧騒の裏に流れる〝静謐〟に気づくことが、

 

神に気づく入り口であり、沈黙する、一瞬黙る、

 

ということの真の意味であったのだ。

 

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今にいて、一瞬黙り、

 

全ての喧騒の裏に流れている静けさに耳を傾けてみる。

 

相手が発する言葉の間にたゆたう沈黙を静観する。

 

そうすることで、耳にする全てが〝神の声〟となる。

 

沈黙はそこに在り、それは聴覚によってキャッチされる。

 

 

そういう感じ方で、内装のガガガガを聞いていると、

 

それもまた、神からの愛してるよー、に聞こえ、

 

なんだか、キュンキュンしてくるのだ。

 

(👆 こっ、このド変態野郎!)

 

 

聴覚をこのように捉えたことがなかったので新鮮だった。

 

そういう意味で五感は、

 

神を感じるためのとても大切な器官(ツール)だ、

 

と思えた今日のボクであった。