香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

通行人A

f:id:shusaku1:20200407004324j:plain

👆 日本のアイスキャンデーの大量買い。

  シャトレーゼがすぐ近くにあるので、便利。

 

今、この夢を見ているのはあくまでも〝わたし〟であり、

 

ゆえに、これは〝わたし〟が見ている夢の物語である。

 

なので、自分の夢に出てくる登場人物は一人残らず、

 

それがどんな大人物であろうと、カスな奴であろうと、

 

ただの登場人物で、それ以上でも、それ以下でもない。

 

言うなれば、

 

自分以外全員エキストラ、つまり、通行人Aなのだ。

 

 

それなのに、僕達は大抵、エキストラを主役にしている。

 

本来は自分が夢を見ている者(主役)なのに、

 

見られている者(エキストラ)の方にその座を譲っている。 

 

寝ている時に見る夢を思い出せばわかると思うが、

 

夢のストーリーは常に、支離滅裂でハチャメチャである。

 

なのに、夢を見ている最中は、なぜかそれを信じており、

 

自分の中では話の筋が通っていると思い込んでいる。

 

 

要するに、眠っている時に夢を見るのと同じ状態、

 

夢を見ている者が、これは夢だと認知していない状態、

 

エキストラに振り回され、主体が不在の状態、

 

それが、認知症の状態、つまり、今の僕たちである。

 

逆に言えば、認知症の人とは、自分が無くなり、

 

夢の登場人物が主役になっている人のことである。

 

f:id:shusaku1:20200407004316j:plain

 

パートナーの心ない言動に一瞬殺意を抱いた、

 

親を馬鹿にする自分の子供の態度にマジ切れした、

 

いつも雑用ばかり押し付けてくる同僚にムカついた、

 

こんな思いに、キキーッ、となっているそこのあなた、

 

それって、うちの認知症の父親が、母のことを

 

〝わしの金を盗む泥棒〟と認知して罵るのと同じ、

 

認知症の症状を発症中なだけですから…

 

 

本当は、そんなことなど一切起こってなく、

 

父のお金はそこにあり、母はただテレビを見ている。

 

「ああ、おいどん、ただ勘違いしとっただけばってん…。」

 

と、自分がすでに神の中にいたことに気づくだけなのだが、

 

まあ、そんな簡単に行けば、今頃全員神の国でごわす。

 

(って、なんで急に鹿児島弁?)

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 まあ、究極的には、多くのコース教師が言うように、

 

「そんな夢を見ている自分すらもいないんですよ」

 

「本当は神と同じ霊(スピリット)の存在なんですよ」

 

ということになるのだろうが、よく考えてみてほしい。

 

まだメシを食ってない、と駄々をこねる認知症患者が、

 

いきなり神へなど、シフトできるわけがないではないか。

 

「密かな罪悪感に気づいて、それを聖霊へ明け渡し…」

 

なんて、そんな高度なミッション、

 

うちの父親にやれと言っても無理なのと同じで、

 

すでに認知し損ねている者にとっては至難の業だ。

 

 

なので、一気に神の方へ向かおうとするのではなく、

 

先ずは、夢を見ている自分に力を戻すことから始める。

 

エキストラに明け渡していた主役の座を、

 

自分の方へ取り戻すのだ。

 

それには、カスな相手に怒り爆発してしまった自分、

 

娘や息子にナメられまくって怒り心頭な自分、

 

人の目を気にして何も言えない自分、に対して、

 

一切抵抗しないでいることである。

 

怒りは怒りのまま、抵抗せずに夢の目撃者であることで、

 

エキストラをエキストラとして、通行人Aを通行人Aとして

 

眺める(見過ごす)ことができる。

 

 

なにはともあれ、主役の私を中心(いま)に置くこと。

 

自分が言うべきことはきちっと言えるようになること。

 

神の愛を感じでどうの、自分なんかなかったこうの、

 

というのは、自分が中心に戻ってからの話である。

 

 

 

いまの感触

f:id:shusaku1:20200326002135j:plain

 

今日はマッサージに行ってきた。

 

もう15年来の付き合いになる按摩師のウィンさんには、

 

肘や甲や関節を使わず、指だけで揉んでもらっている。

 

指だけの施術を2時間も続けると、指自体が疲労して、

 

マッサージ師には大変な負担になるのだ、と、

 

昔、さおちゃんに教えてもらってからは、

 

肘や手の甲も使っていいよ、と言っているのだが、

 

ウィンさんはいまだに指だけでやってくれている。

 

なので感謝の意を込め、マッサージ料金以外に、

 

いつも、5000円ほどチップを渡している。

 

 

マッサージをしてもらっていて常に思うのは、

 

肉体の気持ちよさ、肌に感じる快感というのは、

 

今この瞬間に集中していないと感じることができない、

 

ということである。

 

マッサージの最中、何か他の事を考えていたりすると、

 

指で押されている一点、一点、の感覚に集中できず、

 

気持ちよさが〝から滑り〟してしまうのだ。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった5感のうち、

 

視覚と聴覚は、再生可能な感覚である。

 

古い友人の顔を、いま、思い浮かべることはできるし、

 

音楽なんかも、いま、頭の中で再生できたりする。

 

匂いや味も、運子ちゃんの匂いや、梅干しの味など、

 

視覚や聴覚ほどではないにせよ、なんとなく、

 

記憶からくる感覚として思い出すことができる。

 

しかし、皮膚感覚というか、肌に感じる感触や触感は、

 

それを感じているその瞬間にしか再生されない。

 

過去の記憶として感覚化させることが不可能なのだ。

 

 

それって、ある意味〝愛〟だと思う。

 

もし触覚が、視覚や聴覚と同様に再生可能であれば、

 

過去に味わった痛みを何度も体験してしまうからだ。

 

 

〝気持ちよさ〟は、ハートの悦の感覚に最も近いので、

 

マッサージのように、皮膚の気持ちよさに集中していたり

 

逆に、肌に感じる感触などに意識を集中させることで、

 

いま、この瞬間へ意識を戻すことができる、と言える。

 

f:id:shusaku1:20200406024338j:plain

 

先週、妹からマスクがないとLINEが入った。

 

三日連続で2時間並び、やっと買えたのが7枚という。

 

香港では、中国で生産され、輸出が禁止されている

 

日本向けのマスクが出回っているので、とりあえず、

 

60枚入りのやつを二箱、FEDEXで送った。

 

 

というわけで、

 

あと、4日働けば、香港はイースターの休暇に入る。

 

本来なら、更に有休を取って台湾へ行くつもりだったが、

 

香港でおとなしくしていることにする。

 

 

 

みんな、気は確かか?

f:id:shusaku1:20200405013829j:plain

 

今日は一日中書斎で過ごした。

 

留学していた時に自分で作った広東語やベトナム語の

 

会話集ノートを見ながら語学の復習をしたり、

 

小説の新作プロットを作ったりして過ごした。

 

 

僕は一人で家にいるのが大大大好きなので、

 

自分の部屋だけは、少々お金をかけても、常に快適で、

 

居心地のよい空間にしておきたいと思っている。

 

そのため、チョイ姐に来てもらったり、

 

インテリアや間接照明にとことんこだわったり、

 

不用な物を捨て、部屋にモノを置かないようにしている。

 

f:id:shusaku1:20200405013807j:plain

 

ここのところ、

 

認知症シリーズが続いているが、まだまだ行くぜいっ!

 

 

日頃、僕たちがイラついたり心配したりしていることは、

 

全て認知症の症状だ、ということである。

 

 

〝なんでアイツだけ昇進するんだ。モヤモヤ…〟

 

〝なぜか自分だけ無視されている。ドキドキ…〟

 

〝頭痛いって言ってるのにメシ作れって?ムカムカ…〟

 

〝仕事が見つからなかったら破滅だ。ゾワゾワ…〟

 

これって聖霊兄貴から見れば、認知症の人が、

 

〝アイツがいつもオレの財布から金を盗みよる。〟

 

〝妻が味噌汁に毒を入れてワシを殺そうとしている。〟

 

〝夫が息子の嫁と浮気をしている。〟

 

と訴えているのと全く同じレベルに見えている。

 

 

僕たちが、認知症の家族に、いくらそれは起こってない、

 

と言っても本人は全く聞き入れずに反抗するのと同じで、

 

僕たちもこれと同じ事を兄貴に対してやっているのだ。

 

 

現在の医療で認知症を完治させるのは難しいが、

 

もし、完治するとして、その過程を追ってみると、

 

自分は認知症だったと気づく👉何も起こってなかった👉

 

泥棒だと思ってたけど彼は私のお父さんだった👉

 

自分は彼の子供だったんだ👉よかったあ👉愛と感謝

 

とまあ、こんな感じなのではないだろうか。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

じゃあ、正気に戻るためにどうすればいいのかと言うと、

 

実践すべきことは二つである。

 

一つ目は、イライラ、ドキドキ、モヤモヤ、が湧いた時

 

「ああ、これは認知機能障害なんだ」と察知すること、

 

そして二つ目は、愛と感謝にフォーカスすることである。

 

認知症患者の完治した段階が愛と感謝であるのなら、

 

例えば、家族や友人に、小さな愛や優しさを感じた時、

 

見知らぬ人から親切にしてもらって有難うと言った時、

 

部屋の床に反射する木漏れ日に美しさを見出した時、

 

そこへぎゅーっと焦点を合わせることで正気へ戻るのだ。

 

本当に起こっていると思っている時には気づかなかった

 

小さな喜び、ちょっとした親切、それが正気の姿だ。

 

 

決して認知症の人を侮(あなど)るなかれ!

 

彼らこそが、僕らの今の姿を代弁してくれている。

 

まさに、認知症の人見てわが振り正せ、である。