香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

波動を味わう

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いつも頼りにしているカリスマブログで、

 

ちょっとよさげなカフェが紹介されていたので、

 

早起きをして、土曜の午後から早速行ってきた。

 

 

まあ、香港在住28年目に突入するというのに、

 

カリスマブログなしではどこへも行けない僕だが、

 

このカリスマブログが僕の人生に出現したのも、

 

香港をもっと楽しみたいなあ、と、

 

僕が背後の無限の全体に望んだ結果であり、

 

そういう意味では、まあ、

 

僕が創り出した?ブログなのだと言える。

 

(出たあ!ご都合スピリチュアル…!)

 

 

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場所は香港島の西の外れ、干物の匂いが漂う、

 

上環(ションワン)の古い雑居ビルの中にあり、

 

隠れ家中の隠れ家的なカフェである。

 

マスターが一人でやっているカフェで、

 

入り口でベルを押すと鍵を開けてくれる。

 

店内は丸ごと完璧なマスターこだわりの世界。

 

 

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このとき、お客は僕ひとり。

 

コーヒーのメニューはなく、

 

「最近仕事で疲れているのでリラックスしたい」

 

「昨日ちょっと飲みすぎて頭がすっきりしない」

 

「苦いコーヒーが好きだけどエスプレッソは嫌い」

 

など、マスターといろいろ会話をしながら、

 

その時々の自分に合ったコーヒーを決めてゆく。

 

月曜から水曜は定休日で、土日も、

 

正午から夕方6時までしか営業していない。

 

マスターはもともとインテリアデザイナーで、

 

このカフェを開いて10カ月になるのだという。

 

 

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とてもシャイなマスターで、ちょっとはにかみつつ

 

コーヒーへの想いを語るところが愛おしい。

 

僕もいろいろマスターと会話しながら、

 

エチオピアのコーヒーを淹れてもらった。

 

とてもまろやかでこだわりぬいた味がする。

 

アニータの本を読みながら、コーヒーを啜り、

 

今この瞬間に顕われている平安を楽しんだ。

 

周波数とか、波動とかは分からないのだが、

 

ここは完璧に安らぎの波動が流れていた。

 

香港ではないみたい。

 

 

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初対面だったので、

 

マスターとはあまり深いことは話さなかったが、

 

最近の香港の政治情勢の話になったとき、

 

自分は小説を書いているので、

 

国によって表現が制限されるのは嫌だ、と述べ、

 

台湾に移住したい、みたいなことを話した。

 

マスターも、以前はデザイン会社に勤めていたが

 

忙しい毎日が嫌で、脱サラをしたのだという。

 

 

なんか、しばらく通ってしまいそう。

 

 

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僕も愛だよっ!

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最近、夕食を食べたらすぐ寝てしまうことが多い。

夜、九時頃に眠り、早朝4時くらいに目が覚める。

そして、それからが、なかなか眠れない。

まあ、別にそのまま起きていても構わないのだが

これで会社へ行くと、午前中が少々しんどい。

それで、体だけでも休めようとベッドに横たわり、

背後の全体を感じながら半瞑想で過ごす。

それで、今朝もそんな感じで眼を閉じていたら、

若い時に上司に叱られたときの光景や、

中学の同級生から言われた「アホか」のひと言や

ジムの浴室で6針縫う怪我をした時のこと、など、

普段は記憶の襞の中に埋もれて忘れ去っている

些細な出来事が次々と脳裏に去来しはじめた。

 

 

以前の僕なら、これら過去の記憶たちを、

神に繋がることを邪魔するエゴの〝雑念〟として

即座に〝エイヤー!〟と振り払っていただろう。

しかし、愛である位置から見てみると、

かつての僕が、嫌なもの、煩わしいものとして、

ぞんざいに切り捨ててきた過去の記憶の数々が

再び愛されようと現れてきているように感じた。

「本当は愛されたかったんだよう」と叫びながら、

湧き上がってくる小さな記憶のひとつひとつを、

僕は、愛として認め、愛として送り出しはじめた。

 

 

こうして、本当は愛だった記憶の数々を、

きちんと受け止め、見送ってやることで

彼らは愛となってうれしそうに消えていった。

ああ、これが〝贖罪〟(取り消し)を体験する、

ということなんだな、とこの時思った。

 

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もちろん、愛として送り出せない記憶も出てくる。

父が亡くなる前日、LINEビデオで、

最後に父の顔を見ながら話したときのことだ。

話はできないが、意識はある父の顔を見ながら、

「お父ちゃん!僕が日本へ帰るまで頑張りや!」

と声をかけるや否や、父の傍にいた母が突然、

「あんた、コロナで大変やのに帰ってくるんかっ!

急に家に帰ってこられても何にもできひんし、

オリンピックが落ち着いてからでいいんちゃう?」

と、まくしたて始めた。

僕はとっさに、

「お父ちゃんを励ますため言っただけやろ!

そんな言い方せんとってくれ!」

と、強い口調で言い返した。

その時になって初めて母もハッとなったらしく、

ああ、そうか、と言って黙りこくってしまった。

 

 

こうした母とのやり取りの記憶もまた、

愛に昇華されようと湧き上がってきたが、

まだ記憶が直近すぎて赦すなんかできない。

なので、こういうのは無理に愛で見ようとはせず、

一旦スルー、放置しておく。

母も意地悪から言ったのではないし、

何と言っても親子なので、またしばらくすれば、

普通に愛として見送ることができるだろう。

 

 

とまあ、こんな感じで、小さな小さな記憶の断片を

愛として受け止めながら朝8時までベッドで過ごし

シャワーを浴びて会社へ向かった僕であった。

 

 

 

自分の想いに自分でケリをつける

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  でも最近〝正統派〟が苦手に…。

 

何か現実で辛い出来事が起こった際、

たいていのコース兄弟なら、

肉体である個の私には何も分かりません、

なので、自分では何もしません、判断しません、

と、即行、聖霊に助けを求めて祈ると思うのだが、

祈った後、

聖霊の助けが来たかと言えば???である。

「いや、私たちの分からない深い部分で、

 聖霊はちゃんと仕事をしてくれているんですよ」

とコース教師からアドバイスされたりしても、

やっぱり何も感じないし、苦しいのは変わらない。

 

僕の体験から言うと、それって取り消されてない。

自分で作った夢に、自分でケリをつけないで、

ただスルーして、兄貴い~、とやっても、

自分が納得していないので、助けは来ない。

辛いと感じる出来事が起こった瞬間、僕達は必ず

何らかの思いや感情を〝感じて〟いる筈である。

なのに、

〝悔しいよ、悲しいよ、ムカつくよ、〟

〝オレらも本当は愛なんだよ、認めてくれよう〟

と言って、せっかく出てきたそれらの〝懇願〟を、

「真実のレベルではそれは実在ではない」と、

瞬殺で無視してしまう。

 

ノー!

〝自分でやらない、ただ世界を見過ごす〟とは

どんな感情でも、一旦しっかりと受け止め、

それらが愛であったことをただじっと見とめてから

大好きだよー、と言って去らせてやることである。

しかし、嫌な感情を直視するのはとても辛いので

兄貴に助けてもらう。

それが聖霊と一緒に見る、という意味である。

「これは本当は愛なんだ、だから聖霊に祈って、

 世界を見過ごして、なんちゃらかんちゃら…」

と、言葉で言い聞かせながらやるものではない。

「ああ苦しい!ああ腹立つ!もうイヤだ!」と、

その苦しみをただ聖霊と一緒に感じ尽くすのだ。

 

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僕の場合、

去年の〝国慶節飛び降り寸前騒動〟の際、、

「よっしゃあ、全肯定して受け止めてやるぜ」

と腹にぐっと力を入れ、覚悟が決まった瞬間、

ああ、これみんな愛に変わるために出てきたんだ

と分かって、すっごい感謝と愛に襲われた。

自分が創り出したものを肯定して受け入れ、

それらと真正面から向き合った時に初めて、

自我は納得して愛となって消えてゆく。

それが、赦す、ということの実践的意味である。