👆 今日は十日戎の日だった
家の前の堀川戎神社もにぎやか
映画を見ていた時、ちょっと奇妙なことがあった。
この日の客の入りは4割ほどで空席も目立っていた。
僕は、前が幅の広い通路のようになっている列の、
端から二番目の席を購入した。
この席の取り方だと、このガラガラな空席状況の中、
わざわざ端の座席を予約して、僕と一緒に映画を見る
人などまずいないだろう、と予測したのだ。
そしていざ、コートやカバンを、その一番端の席に置き、
足を伸ばしてコーヒー片手にシートに座っていると、
ポップコーンのカップを抱えたオタクっぽい青年が来て、
「あのう、すみません、ここ…」と言うではないか。
えっ、おまえ、わざわざ俺の隣に座るのか?
他にいい席がたくさん空いているのに?
仕方なく、僕は荷物をのけ、彼に席を空けた。
幸い、反対側の席が空いていたので、
荷物はそこに置けた。(ていうか、全体的にガラガラ…)
思わず席を移動しようか、と思ったが、面倒くさくて、
そのままアニオタっぽい青年と並んで腰かけていた。
おまけに彼は、暗い館内でスマホを見はじめた。
くうーっ!注意しようと思った矢先、本編が始まると、
彼はさすがにスマホを消したが、内心、
また兄弟が邪魔をしてきた、と、ひとり脱力していた。
しかし、本編が進むにつれ、隣の彼が、
俺と一緒に映画を見てくれている連れのように思え、
俺の隣にわざわざ座ってくれてありがとう、
みたいな想いが込み上げてきた。
なんていうか、
神がアニヲタを装ってやって来た、と思ったのだ。
だって、俺が思い切りキモくてヤバいヤツだったら、
誰も俺の隣になんか座ろうとは思わないだろうから。
👆 夜店も出たよ!
商売繁盛!イエーイッ!
で、ひょっとして、と思って再度隣を見てみると、
一瞬、彼の姿が兄貴に見えた。
わざわざ隣に座るなんておかしいと思ったのだ。
しかし、僕もすぐに映画へ没入してしまったので、
映画が終わって見てみると、隣の彼は姿を消していた。
自分に寄り添ってくれているのは、
なにも、家族や友人やパートナーだけではない。
物や、空気や、音や、道行く見知らぬ人も、
自分に愛で寄り添ってくれている。
たとえ相手がどんな風に見えようと、それらは皆、
見えない側からの愛の顕われなのだ。
他人の中でひとりぼっち、なんかではない。
定食屋で相席になった人、満員電車で隣にいる人、
本当は愛の化身に見守られている。
僕が見えるはずのないものが見えたりするのも、
見えない側(光の世界側)を圧倒的リアルとして、
その中を〝ほんとうに〟生き始めたからなんだな、
と、この映画を見てつくづく感じたのだった。