👆 料理長と館長と、ボク
12月18日は僕の誕生日だったのだが、この日は、
たまたま食事の約束をしていた植物園の館長が、
新地の高級料亭“かが万”に連れて行って下さった。
大阪の銀座である北新地で地下鉄を降りると、
エスカレーターは出勤前の女の子でいっぱいだった。
どの女の子もめっちゃくちゃきれい。さすが新地だ。
👆 ビール⇒ワイン⇒日本酒
かが万では、
同伴出勤のカップルや、和服姿のママさんが、
優雅に食事を楽しんでいて、新地ならでわである。
僕たちは、カウンター席で、板さんとお話しながら、
お酒や料理を堪能していた。
多分だけど、今まで食べてきた和食料理の中で、
ここの料理がいちばんおいしい、と思った。
また、何かを食べてこれほど感動したのも初めてで、
食べ物で優しい気持ちになれたのも初めてだった。
👆 見た目は普通だが食べてびっくり!
プロの心意気を見せつけられた
料理長が、館長に挨拶をしに出てこられた。
この店に40年いる料理長は、とても優しい人で、
もう、人柄が料理の味に顕われている感じだった。
話を聞くにつれ、この道一筋、一つの事を極めた人
ってすごいな、と改めて感服した。
最後、牡蠣を使ったご飯が好きな僕のために、
牡蠣ご飯をお弁当にして持たせてくれた。
ようし、僕も、この料理のような小説を書くぞ、と、
たくさんの元気をもらえた誕生日の一日だった。
館長、料理長、そして、板前の皆さん、ありがとう。
👆(上)一匹丸ごとカニ。実の下はぎっしりカニみそ
(下)牡蠣のドリアが絶品中の絶品だった
目が見ているもの、耳が聞いているもの、
舌が味わっているもの、皮膚が感じてああいるもの、
鼻が匂っているもの、など、五感が捉えたものを、
脳(意識)がああだこうだ、と解釈している。
目、耳、鼻、舌、皮膚、の活動を脳が解釈する、
それを〝私〟だと思い込んでいる。
そもそも、これら(視覚/聴覚/嗅覚/味覚/触覚/知覚)
の働きがなければ〝私〟など存在しえない。
👆 赦しも意識が仕切っている
机や、人や、車や、服や、建物の形が見えている。
誰かの言葉や、救急車の音や、音楽が聞こえている。
うんこや、ラベンダーや、汗の匂いがしてくる。
ビールの苦さや、カレーの辛さ、の味がする。
寒さや暑さ、汗のべとべとした感覚が感じられる。
5感の機能は、見えたまま、聞こえたまま、…を、
ただ、ダイレクトにそのままを伝えているだけなのに、
それを、この服嫌い、この音楽好き、なんやこの匂い、
と、脳(意識)が次々に横取りしては勝手に解釈して、
それを自分だと主張している。
そして、その解釈の仕方の出来ばえいかんで、
あんな受け答え(解釈)ができるなんて、あの人すごい
それに比べて自分は…、とかやっている。
👆 思いですら、目や耳と同格であり、
そのまま、ありのままをささげる
もともとは、目や耳や鼻などと同格であり、
単なる肉体の一機能に過ぎなかった脳(意識)が、
5感の〝ありのまま〟に次々と手を伸ばして、
あーでもない、こーでもない、と解釈しだして、
「人とは違って、こういう解釈ができる、それが私!」
と、意識が〝自分〟のようにふるまい始めたのだ。
👆 意識を、目や耳や鼻と同格にすること
もっと言うと、解釈(思い)すらも自分でやってない。
見たくなくても、勝手に目に飛び込んでくる風景同様、
思いも、自分でこう思おう、と決めて出てきていない。
なぜなら、コーヒーが飲みたい、という思いが、
どこからともなく、ふっ、と脳裏に浮かんで来ない限り、
絶対にコーヒーを飲むことなんかできないからだ。
要するに、何の脈絡もなく、ふっと浮かんできた、
コーヒーが飲みたいという思いに対して、
私がコーヒーを飲むと決めた、と錯覚している。
よく、なんであの時、あんなことをしてしまったのか、
と、後で悔やんだりすることがよくあるが、
そうしよう、という考えが、ふっとやってきて、
それを体が、ふっと行なっただけである。
どうすることもできないし、コントロールもできない。
そういう意味で、何かをできる私なんかどこにもない。
ふっと見えたり、ふっと聞こえたり、ふっと思ったり、
するのが先にあり、その後で、私が見た、聞いた、
思った、が立ち上がってくる。
〝私〟に実体などなかったことを見抜くこと、
夢から抜け出す第一歩はここから始まる。