昨日は、コース兄弟たちと新地で新年会だった。
久々に、ちゃんとした日本料理を食べた。
個室だったので、気兼ねなく大声で神を連呼でき、
たくさん神や愛について話し、楽しい時間を過ごした。
その中でも、ある兄弟の言ったことが印象に残った。
道を歩いていて、路地から車がさっと出てきた、とか、
前から人相の悪い男がやってきて通り過ぎていった、
とか、信号待ちで偶然知り合いに出くわした、といった、
何気ない日常の一コマ一コマはすでに決まっていて、
完ぺきに仕組まれ、シンクロしている、というものだ。
食事中の何気ない雑談として話された会話だったが、
なぜかとても深く印象付けられた。
結局、この夢の世界は、すでに撮り終えた映画が、
シナリオ通りに進行していっているに過ぎない。
いきなりパソコン壊れる、というのまで決まっている。
あのとき、床に落としたからパソコンが壊れたんだ、
というのも、すでに仕組まれた筋書きだ。
ただ、次に何が起こるか知らない僕たちは、
起こったことにいちいちちょちょ舞い、対処する。
そして、ちょちょ舞い、対処するというシナリオを、
役になりきって演じることで、映画(自我)は存続する。
なぜ、物語は決まっている、と言えるかというと、
いくら、人生は自分で切り開くものであり、
自分次第でどうにでも変えられるものだ、と言っても、
人生をこう切り開いていこう、という思いが、
勝手にふっと湧き上がってこない限り、
僕らはそれを選択することは不可能だからだ。
そうやって、意味なく、ふっと湧き上がって来た思いを、
自分で決めた、とか、自分の人生だ、と言っている。
なので、この夢の世界で、にっちもさっちも行かないとき、
自分の力でその状況を変えることなどできない、
と観念することだ。
すると、心に隙間ができ、ストーリーから解放される。
なんであの人はああなんだ、といっても無駄な話だ。
変わるかどうかなど、その人が決めるのではなく、
ふっ、と起こってくる想いや出来事で結果は決まる。
自我は、僕達が、決まっているストーリーに一喜一憂し、
必死で打開策を見出しながら葛藤することで存続する。
だから、そのストーリーを〝意味ねえ!〟と抵抗せずに、
見すごすことが、ストーリーから抜け出す一歩となる。
勝手に起きている人生なので、
勝手に起こるままにさせてやることで、
勝手になるようになって消えてゆく。
なにも心配する必要などない。
そして、ストーリーが自分ではないと分かり、
今ここに在る神に抵抗しなくなった時、
本当は、そっちが自分だったと理解するのだ。
そうなることで〝もっといい世界〟が見えてくる。
とまあ、そんな感じで、兄弟たち、ありがとう!
また遊ぼな!