香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

とことんテンパる

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今日は、あの…、あの…、恐怖の部門長会議であった。

 

正確には、元恐怖の…、というべきか。

 

まあ、スカイプ参加とはいえ、大勢の前で発表するので、

 

ドキドキビュンビュンは、あるにはあるのだが、

 

間違いを指摘されたり、責められたりする恐怖から、

 

わなわなとテンパってしまう、みたいなのは無くなった。

 

なぜなら、兄弟が愛以外のものであるはずがない、

 

と心底理解しているのと、それになにより、

 

愛である兄弟から責められることが起きるのなら、

 

よろこんで思う存分責められます、というような、

 

ドM感覚に似た〝法悦〟が根底にある。

 

 

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それで、僕は、ハタと気づいたのだ。

 

何かにテンパったり、ギンギンにちょちょ舞ってる時って、

 

ちゃんと、今、この瞬間にいれている、と…。

 

 

どういうことかというと、

 

例えば、

 

厄介で急ぎの業務メールが、どわーっと来て、

 

一つ一つに必死で返信を返しているときとか、

 

会議の直前になって資料の不備が発覚し、

 

あと10分で修正しなければならないときとか、

 

仕事のクレームが退社時間ギリギリに入り、

 

頭をフル回転させながら、対応策を講じているときって、

 

ちゃんと、いま、この瞬間に集中できている。

 

 

これまで、僕は、焦ったり緊張する状態というのは、

 

どこか無意識状態で、自分を見失ってる状態である、

 

と思っていたが、よく考えると、テンパってる時って、

 

それ以外の事を考える余裕など全くなく、

 

その問題に一点集中しているので、

 

 過去でも未来でもなく、

 

いま、ここに在る問題に取り組めている。

 

そして、そのテンパってる元凶である問題こそが、

 

今この瞬間に在る神なのである。

 

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なので、こういう非常に緊張する場面に直面した時、

 

逆に、とことん、思い切り、テンパってみるのも手である。

 

最も恐れているものの中へ、ぎゅーっと入ってゆくと、

 

実はそれは神だった、となったりするからである。

 

僕たちは、自我を恐れてテンパっているのではなく、

 

本当は神を恐れていたのだ。

 

そのことに気づくことで、

 

神を恐れながら、神を求める、という、

 

世にも奇怪なことをしている自分にも気づいたりする。

 

 

だから、ガチガチにテンパることは悪いことではない。

 

テンパっている自分をバシバシバッシングする必要もない。

 

究極にテンパりまくることで、今に在ることができ、

 

いまここに在る神が見えてきたりするからだ。

 

その、いまここに在る神への抵抗を止めることで

 

神を思い出してゆく。

 

 

というわけで、兄弟よ、

 

安心して、思う存分テンパるのだ!

 

 

法悦男子

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今日は、正午からトレーナーと筋トレだった。

 

最近、トレーナーは僕にあまり高重量を挙げさせない。

 

その代わり、軽いウェイトで丁寧にゆっくりやらせる。

 

その方が成長ホルモンを出すには有効らしい。

 

 

その後、マッサージに行くつもりだったのだが、

 

新型肺炎の影響で20日まで店が休み、ということで、

 

午後は、家で、読書をして過ごした。

 

ソファに足を伸ばし、コーヒーを飲みながら、

 

英文法の本と、張賢亮の小説と、エッグハルトを読む。

 

こういう心地よい時間はまた、神に在る時間でもある。

 

神に在る時間とは、今に対する抵抗が起きない時間だ。

 

そういう、心が比較的落ち着いていて穏やかな時は、

 

思考をただの思考として見過ごすことも容易にできる。

 

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たとえ、仕事で大問題に直面していたとしても、

 

明日の支払いに四苦八苦していたとしても、

 

四六時中、人間関係の事ばかり考えていたとしても、

 

ほんの短い時間でも、それらのことを忘れて、

 

今の自分ができる範囲で心地よい事をするのは可能だ。

 

例えば、カフェでコーヒーを飲みながらぼーっとしたり、

 

大好きな歌手の歌を聴いたり、散歩をしたりする。

 

一日のうち、それくらいの短い時間なら、

 

いま、直面している問題を忘れ、

 

ほっこりと、平安いることができるはずだ。

 

とりあえず、その時間だけは、いまにいて、

 

そのコーヒーや歌に抵抗せずに過ごすのだ。

 

それが、ここに在る神を受けいれるということである。

 

 

ほかの時間は思い切り悩んでいてもいいから、

 

まずは、少しでいいから、神を感じる時間を作ること、

 

そして、神を感じるとは、いま、ここに在るコーヒーや

 

テレビ番組や、木々のさざめきを感じるということだ。

 

 

だって、海でおぼれているとき、助けてーっ、と、

 

手足バタバタで、ギャーギャー暴れ回っていたら、

 

救助隊(聖霊)だって、救助のしようがないのと同様、

 

人生の嵐の真っ最中な時だからこそ、

 

溺れまいと、ばたつかせている手足の動きを停める。

 

そうして、一瞬、僕たちが神の方へ向いた隙に、

 

救助隊は、さっと僕たちを救い上げるのだ。

 

 

こうなると、だんだん、

 

 

助けてーっ⇒ て、誰が助かるん?⇒ 誰もおらへん⇒

 

考えだけが出てる⇒ 思考だけが湧いてるだけやん⇒

 

世界も思考や⇒ なに?この愛の感覚⇒ 神やん!

 

⇒これも、あれも全部神やん⇒ うわ、神がおる⇒ 

 

自分も神と同じものやったんや⇒〝それ〟が自分や

 

 

となり、問題だと思っていたものも自然と溶けてゆく。

 

(と思う。多分…)

 

 

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心地よいついでに、久々に瞑想をしてみた。

 

結果、爆睡。

 

ああ、法悦…。 

 

 

よろこんで!

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昨日がバレンタインデーだったことにいま気づいた。

 

香港のバレンタインは、一般的に、男性のほうから、

 

好きな女性が働く会社に花を贈り、夕食に誘う。

 

例年なら、どこのレストランも満員となるはずなのだが、

 

新型肺炎の影響で、街に人影はまばらだ。

 

 

夜、自主トレをしようと近所のジムへ行ってみた。

 

普段は、マシンの空きを待たなければならないほど、

 

人でごった返しているのに、今日はなんと、

 

僕を含め、たったの6人しかいなかった。(数えた)

 

先週より明らかに、

 

新型肺炎に対する警戒が強まってるな、と感じた。

 

でも、ま、いっか。

 

こうなったら専用プライベートジムを満喫することにする。

 

マシンやベンチも使い放題なので、ここぞとばかりに、

 

〝食いだめ〟ならぬ〝鍛えだめ〟をしておくことにした。

 

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金曜日に会社で起こった出来事を書いてみる。

 

この日も僕は、昨日に引き続き、会計事務所が作成した

 

税金申告書の内容をチェックしていた。

 

その中で、見覚えのない数字が出てきた。

 

調べてみると、フィリピン工場から受け取った売掛金が

 

245ドル多いことが分かった。

 

しかも、記帳が去年の三月になっている。

 

 

一瞬、この件をどう処理しよう、と考えた。

 

 

〝フィリピン側の財務に請求書の金額を確認したのち、

 

 クレジットノートを発行して財務諸表も書き直し…、

 

 ああ、メンドクセー、という思いと同時に、

 

 フィリピン工場側から何を言われるか、という恐怖や、

 

 ミスをした自分への罪悪感がシュワシュワ湧き上がり…〟

 

 

なあんて事態には、一切、全然、これっぽっちもならず、

 

神の化身である兄弟が何とかしてくれるだろう、という、

 

愛と感謝の想い(神の想い)だけに満たされていた。

 

 

兄弟を通して、神の想い(歓びの想い)が伝わってくる。

 

このような事は起こってすらおらず、本当に無いことを、

 

神が兄弟達を通して、アリアリと体感させてくれている。

 

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 あ、そういえば以前、がんこ寿司の店員さんが発する、

 

はい、よろこんで!を聞いた時、これ使える、と思った。

 

 

そんな失敗をしたら、みんなから無能呼ばわりされるで、

 

そんなことを言うたら、あの誰々が黙ってへんぞ、

 

急げ急げ、あの電車に乗らんかったら遅刻やで、

 

遅刻したら、さぞ、お客は怒るやろなあ、

 

といった自我の声が聞こえて来た時に、

 

「はい、よろこんでーっ!」とスルーできる。

 

 

「こんな間違いを犯して、みんなから責められるでぇー。」

 

👉 はい、よろこんで! どうぞどうぞお責めください。

 

「そんなことしたら、あの人、怒るやろうなあ。」

 

👉 はい、よろこんで! 思う存分怒られます。

 

「あーあ、やっちゃったね。もう終わりだね。」

 

👉 はい、よろこんで! 終わって全然ケッコーです。

 

 

てな具合である。

 

そうやって、がんこ寿司スタンスでいると、面白いことに、

 

なぜか、実際には自我の言っているようにはならず、

 

平安と愛に満たされた結果へと好転するから不思議である。

 

 

要するに、自我による恐怖劇場に開き直れば、

 

自我の声を笑い飛ばしたことになり、

 

自我に変わって神の愛が発露しだす。

   

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だれもかれもが、もう本当に大好き。

 

会社員の方なら分かっていただけると思うが、

 

会社で大好きが溢れてるなんて、

 

イエスが海の上を歩く以上の奇跡だと思う。

 

 

ただ、誤解を避けるために言うならば、

 

自我の妄想劇場であるこの現実を大好き、

 

と言っているのではない。

 

薄皮のベールに透けて見える神の想いそのものに、

 

だいすきー、と感じている。

 

(※もうこんな注釈、いちいち入れたくないのだが…)

 

 

いまの僕にとって、兄弟はみんな、

 

神の愛を見せてくれる大切な存在になっているので、

 

何をしているように見えても、愛の反映にしか見えない。

 

兄弟は夢の中においても僕を助けてくれる愛の存在だ。

 

 

ただ、肉体を持って夢の世界を生きている限り、

 

今後、不安と恐怖がシュワシュワ湧く事もあれば、

 

コノヤローと思うようなこともあるかもしれない。

 

それでもいい、と思っている。

 

どんなことがあっても、

 

根底を流れる神への大好きは変わることがないから…。