香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

思うそばからやってくる

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決して、決して、

 

現実が良くなることを目的にはしていないのだが

 

なんかここの所、毎日の流れがスムーズというか

 

こうだったらいいなあ、と何気に思ったことが、

 

次々と日常へ反映されてくるようになっている。

 

 

昨日の記事でも書いたように、

 

事務所の備品の処分って面倒だなあ、

 

自分でやりたくないなあ、と思っていると、

 

おばさんたちが、ドワーッとやってきて、

 

一気に片付いたり、

 

新しい会社が少し駅から離れたところにあり、

 

通勤どうしよう、と思っていると、

 

エドワードが色々調べてくれ、

 

家の前から出る115番のバスに乗れば、

 

会社のビルの前まで30分で行けると教えられ、

 

ちょっとカンドーした。

 

また、今の会社に借りてもらっているアパートに、

 

このまま住み続けたいなあ、引っ越しイヤだなあ

 

でも家賃高いし、無理かなあ、なんて思っていると

 

新しい会社が、今の家賃分を、

 

僕の給料に上乗せしてくれることになったり、と、

 

こうだったらいいなあ、と望んだ途端、

 

瞬殺で、解決されていってしまうのだ。

 

 

それで今日も、次に行く新しい会社には、

 

海外傷害保険がないため、どうしたもんかなあ、

 

でも自腹はいやだなあ、と思っていたら、

 

今の会社の香港支社が閉鎖になるまでの間、

 

政府登記用の代表者に名前を貸してくれれば、

 

入ったばかりの海外傷害保険や家屋保険を、

 

解約せずに、使い続けてもいいことになった。

 

というのも、香港の現地法人では、

 

必ず香港に住所のある永久居住者が

 

登記上の代表者になる必要があり、

 

僕の代わりを探し出せなかったコンババ部長が、

 

上記のような代替案を提案してきたのだった。

 

これで、香港での医療費も全てタダになった。

 

 

また、前から言っているように、僕の給料は、

 

日本の口座に日本から日本円で振り込まれる。

 

僕は里帰りの度に、まとまった現金を持ちこみ、

 

それを香港での生活費に充てていたのだが、

 

ここ1年半、コロナ禍で出国ができず、

 

手元の香港ドルも心もとなくなっていた。

 

どうしたらいいかなあ、と思っていたら、

 

僕の最後の給料を、

 

香港の口座へ送金してもらえばいいのでは、

 

と閃き、コンババ部長に言ったら即OKになった。

 

 

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これ以外にも、

 

僕が家を出たタイミングでバスが来たり、

 

おいしいシュークリームが食べたいなあ、

 

と思いながら歩いていたら、

 

シュークリーム専門店が目の前にあった、

 

みたいなことが、次々に起こるのだ。

 

 さっきも、

 

炭酸水の栓を開けようとしたが栓抜きがない。

 

で、たまたまアパートのゴミ捨て場に、

 

ゴミを捨てに行ったら、

 

そこに栓抜きが捨てられていた。

 

この時、これはもう絶対〝確信犯〟だと思った。

 

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再度言うが、

 

何かを引き寄せたい、とか、全く考えてはいない。

 

ただ、後ろの無限の全体に開いて、

 

ひとつの感じ、愛の感じで過ごしているだけだ。

 

最近では、これどうしようかなあ、と思った瞬間、

 

また誰かが助けてくれて、解決すんだろうなあ、

 

という確信まで生まれてくる始末だ。

 

 

うまくいったからわーいわーい、ではなく、

 

自分を、神を、内側に在る兄弟を、愛を、

 

信頼できている結果として現実を見ている。

 

 

無常の4月

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エドワードの出社日数も残りわずか9日となり、

 

今日から香港事務所は備品の整理に入った。

 

僕はまだ来月一杯ここに残るのだが、

 

5月10日には電話線も切られてしまうので、

 

5月後半は家で仕事をすることになる。

 

それで、まだ彼がいる今月のうちに、

 

山のようにあるファイルや書類やサンプル類、

 

冷蔵庫やソファなどの備品を処分しようと、

 

今日から整理を始めたのだ。

 

 

しかし、憂慮には及ばずで、

 

彼はビルの清掃のおばさんたちと話をつけ、

 

棚にずらりと並んだ大量のファイル類を、

 

おばさんたちに片付けさせたのだ。

 

書類やコピーの紙はよい値で売れるらしく、

 

おばさんたちはほくほく顔で片付け始め、

 

あっという間に、棚が全部カラになった。

 

 

掃除機や電子レンジなどの電気製品、

 

ソファやデスクなどの家具もまた、

 

全て大家さんが処分してくれることになり、

 

僕は貴重品だけを持ちだすだけでよくなった。

 

 

 

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でも、思えば、YUI、ケリー、ふぁちゃん、に続き、

 

同僚の日本人、エドワード、と、みんな去ってゆき

 

最後はとうとう、僕一人になっちゃった。

 

そして僕もまた、もうすぐここを去ることになる。

 

また、4年間お世話になったトレーナーも、

 

5月一杯で卒業することになっている。

 

そういう意味で、僕にとっては、

 

この5月が非常に重要な分岐点、というか、

 

節目になっている気がする。

 

 

諸行無常の2021年、

 

ああ、何から何まで、わざとらしいくらいに、

 

全てが終わってゆく。

 

 

 

先手で勝負! 

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自分の中に神の力強さを取り戻せていないのに

 

兄弟の幸せを考えたり相手を愛で観ようとすると

 

逆に相手から、わがまま勝手な反逆を食らって、

 

ヘタをこく、ことがよくある。

 

 

自分に力を戻せていないと、

 

私は神の子です、の後に、なぜか、

 

あの人も神の子です、と付け加えてしまう。

 

自分だけを神の子、と宣言してしまうことに、

 

後ろめたさというか、罪悪感を感じてしまうのだ。

 

そして、

 

罪悪感が軸となった〝あの人も神の子です〟が

 

相手に攻撃をさせるきっかけを作っている。

 

なぜなら、

 

自己の内面を映し出しているのが他者なので、

 

自分の中に神の子としての自覚が確立されれば

 

幻想の他者は自動的に神の子に変わるのに、

 

わざわざ、あの人も神の子です、とやることで、

 

他者を先手にして実在化させてしまっている。

 

 

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なので、なにはともあれ、自分に集中する。

 

自分の全てを肯定し、自分の全てに許可を出し、

 

無限の全体の主体は神の子である私だ、

 

が自覚されて初めて、あの人も神の子です、が、

 

ひとつの神の子として背後に知覚されてくる。

 

 

とは言っても、

 

自分を後手にすることに慣れている人が、

 

いきなり、自分を先手にするのも無理がある。

 

なのでまずは、頭の中を変えることから始める。

 

 

職場などで、相手から攻撃されたりしていたら、

 

「よし、どんなことでも全部、受け止めてやる!」

 

と力強く覚悟を決めて自分に宣言してやる。

 

そうすることで「また攻撃される、怖いよー」から

 

「受けて立ってやる」に意識が変わったことで、

 

少しだけ強さが自分に戻ってくる。

 

 

相手の言動にすっごくムカついたら、

 

「腹立つ、腹立つ、ムカつくぅーっ、死ねえー!」

 

と、思い切り一人きりの場所で叫ばせてやる。

 

そうすることで「言い返せない自分に悶々…」

 

から「好きなだけ吐き出させてやるんだ」と、

 

少しだけ楽な気分になる。

 

 

怒りを爆発させてしまう自分が赦せなかったり、

 

他者の言動で自分を責めたりする状態で、

 

相手を赦すとか、愛で観るとか、無理だし、

 

「怒りは決して正当化されない」というのも、

 

自己の内部に力強さが戻って初めて、

 

心からそう宣言できる。

 

 

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なので、

 

先ずは〝私〟を受け容れることで神を受け容れ

 

私が本当は神と同じ神の子だったと智ることで、

 

神しかなかった、神だけだった、となり、

 

故に、はなから私など存在しなかったと気づき、

 

他者も同様だった、と自覚できるようになる。

 

結局、自分に気づくことが神に気づくことなのだ。