香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

自分で自分にウソをつく

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神や聖霊を信頼する前に、先ずは自分を信頼しろ、

 

という話である。

 

この世界は幻想であり夢であるからと言って、

 

肉体の自分はどうでもいい、ということではない。

 

もう何年もコースを学び、実践もしているのに、

 

いまだ緊張や動揺を感じていたり、

 

何かにヘトヘトに疲れていたりする現実が、

 

長期的にまたは定期的に続いているのであれば

 

一度、立ち止まって、これまでやってきたことを、

 

じっくり見直した方がいい。

 

やり方を間違えてるから…。

 

 

〝私がいるべき世界はここではなく、天国です。

 

    私はこの自我の夢の世界から目を覚まして、

 

    永遠に父が待つ故郷へ戻ります〟

 

 

を、頭で理解することはできても(特に男性)、

 

体感として真にそう感じられている人は少ない。

 

そもそも、他者や幻想を赦せるようになるには、

 

先ず自分の心が癒されていなければならない。

 

そして、心の中が癒されるには、

 

自分が何を〝感じている〟のかを、

 

その都度、きちんと細かく見てゆく必要がある。

 

 

なぜ、自分はあの人に怒りを感じているのか、

 

あの時、本当は自分はどうしたかったのか、

 

本音の自分は、本当にここにい続けたいのか、

 

頭ではなく、その時に感じていることを、

 

きちんと認識してゆくのだ。

 

 

そうすると、大抵、

 

コース兄弟ならでわな〝ウソの〟答えが返ってくる。

 

〝あの兄弟も自分も無罪であり、愛でしかない〟

 

〝本当は神の愛だけを感じていたかった〟

 

〝自分が居る場所は天国でありここではない〟

 

ちょっと待ったあーっ!である。

 

その奥には、もっと深くて暗い本音がある。

 

〝本当はあいつに嫉妬してたまらないんだ〟

 

〝なんで俺ばっかり、ふっざけんなあー!〟

 

〝こんな仕事やってられるかよ〟

 

が隠れているのに、そういうのは無視して、

 

いきなり「あの人も愛です!」とやってしまう。

 

心の底では、はらわた煮えくりかえっているのに

 

「あの人を赦したい~!」なんて、できるかよ!

 

聖霊兄貴も真っ青、だよ。

 

 

厄介なのは、

 

そういう怒りや嫉妬や憎悪を感じている自覚が

 

本人にはほとんどない、ということだ。

 

感じる感度が鈍くなっているので、

 

不当に扱われていても、そんなに腹が立たないし

 

自分で自分を抑圧している感じもしない。

 

「そんなに憎しみとか感じてないんだよねえ」

 

みたいな…。

 

 

そんなわけないじゃん!

 

ひどいことを言われて、

 

傷ついてない、わけないじゃん!

 

自分の本音の感情を置き去りにして、

 

故郷へ帰ることなんてできるわけがない。

 

 

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なので、不安や緊張を長期的に感じている人は

 

自分の中に隠れている爆発的な負の感情を、

 

聖霊と一緒に一度きちんと感じてやる。

 

見るのではない、感じるのだ。

 

ただ、自分の心の中の本音と向き合うには、

 

静かでリラックスした一人の時間が必要となる。

 

大体、不安や緊張感を抱えている人というのは、

 

一瞬もじっとせずに動き回っている人が多い。

 

家にいてもスマホを見ながら何やかやしているか

 

休みの日も、家でぼーっとすのは勿体ない、と、

 

あちこち出かけて行ってしまうのだ。(昔の俺…)

 

そうすれば、内側と向き合わずに済むから…。

 

 

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何年も赦しを実践しているのに、

 

いまだ不安や緊張の現実を映し出している人は

 

自分(神)への接し方がおかしい、

 

と思った方がよい。

 

何年も実践していて、変わらないはずがない!

 

まあ、人それぞれなのはわかっているが、

 

真面目に〝何年も〟実践してきて赦しが進み、

 

神の気持ちを感じられている兄弟が、

 

以前よりかはだいぶ良くはなっているのかなあ、

 

程度なわけがないではないか。

 

決して現実をよくすることが目的ではないけれど

 

神を感じるとは、自分を感じることなのだ。

 

そして、神の中に在りたいのであれば、

 

恐怖の中で時を過ごすことを許してはならない。

 

 

 

こじらせ兄貴

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👆 夕食はベトナム料理の食堂で牛肉フォー

 

 

自我は、聖霊が愛をこじらせた姿に過ぎず、

 

元々は聖霊と同じものだった、という話である。

 

なので、僕の場合、自我を手放す、というより、

 

聖霊(正気)に戻す、という感覚の方が強い。

 

 

自我に気づき、自我を認識したら、

 

それは愛が裏返った聖霊なんだと理解することで

 

自我は元来の愛の姿へと変容を起こし、

 

聖霊となって僕の背後へと還ってゆく。

 

そうやって、自我を聖霊と同じ愛の存在だとして

 

認識できてくると、見えるもの、聞こえるもの、

 

触れるもの、起こってくることなど、たとえそれが、

 

どんなに忌み嫌うようなものであっても、全てが

 

聖霊(神)でしかあり得ないと理解できてくる。

 

 

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少しテクニカルなやり方を述べると、

 

自我男のささやきが聞こえてきたら、

 

先ずは自分の意識を、

 

頭からみぞおち(ハート)へ、

 

未来から今この瞬間へ、と移動させる。

 

どういうことかというと、

 

〝こんなことしたら誰かになんか言われるで!〟

 

〝この仕事辞めたら、将来貧乏暮らしや!〟

 

〝もうこんな年齢で、恋愛は無理やなあ!〟

 

といった自我の声は、

 

常時頭の中に鳴り響いており

 

それが未来の不安要素と結びついた瞬間、

 

恐怖や不安となって知覚化されてくる。

 

そう、自我と頭と未来はワンセットなのだ。

 

それとは逆に、聖霊の声は、

 

常にみぞおち(ハート)で鳴り響いており、

 

今この瞬間に在ることで、知覚することができる。

 

つまり、

 

聖霊とハートと今がワンセット、ということである。

 

自我は頭の中でしか生存できないので、

 

今この瞬間に在るハートに意識を戻せば、

 

もともと聖霊である自我は消え去るしかない。

 

だから、僕の場合(あくまで僕の場合だが)、

 

自我の叫びに気づいたら、しばらく見つめてから

 

ハート(みぞおち)に在る聖霊を思い出し、

 

ゆっくりと、未来と結びついていた意識を、

 

今この瞬間へと戻してやる。

 

 

ベタな関西弁で攻めてくる僕の自我男は、

 

毎回、真正面から〝ガン見〟してやると、

 

なぜかいつも、シュン、となって消えてゆく。

 

 

今この瞬間に気づいて、

 

ハートのエクスタシーを感じていることこそが、

 

聖霊に気づいていることとなる。

 

 

ヌレヌレボッキン!

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前回の〝神とのセックス体験〟以降、自分の中で

 

常に愛がズンズン疼いている状態となっている。

 

会社では、日々小さな事件が多発するわけだが、

 

一瞬神を忘れていても、今に呼吸を戻せば、

 

〝あのパワー〟が即行でわわっと上がってくる。

 

昔、法悦女子が〝ヌレヌレ〟と言っていたが、

 

法悦男子の場合は〝ボッキン!〟である。(笑)

 

でも、あの天城越えの感じとは一線を画していて、

 

エクスタシーとか、感動とかではなく、それはもう、

 

ズキンと突き抜けるように凛とした衝撃というか、

 

秩序だった巨大な神気というか、

 

怒張した、凛凛と、天を衝く、といった、

 

エロ小説に出てきそうな表現でしか、

 

到底表せられないものなのだ。

 

 

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まるで、神が、おいでおいで、をしているみたい。

 

まだ自我に乗っ取られていた頃の昔の自分が

 

この〝おいでおいで〟を体験したら、

 

三途の川の向こうから、得体のしれない怪物が、

 

おいでおいで、をしているように見え、

 

怖くて一目散に逃げ出していただろう。

 

また、今回体感した〝神のパワー〟も、

 

自分を押しつぶそうとする破壊の力に思え、

 

ものすごい抵抗を起こしていたに違いない。

 

そういう意味で、

 

僕の智覚もようやく正気に戻りつつあると言える。