香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

お逝きなさい

👆 場末感漂う東梅田通り商店街

 

 

徹底的に、ひたすらに、ひたむきに、そして気負わず、

 

相手にしない、歯牙にもかけない、反応しない、

 

取り合わない、耳を貸さない、鼻もひっかけない、

 

気にも留めない、問題にしない、一顧だにしない、

 

スルーする、見過ごす、シカトする、笑い飛ばす…。

 

これが自我に対する唯一の対処法である。

 

その証拠に、完全認知症の人が自分に向かって、

 

さも、それが真実のように何かを語りかけてきたら、

 

僕らはたぶん、上記のように対処すると思うからだ。

 

 

ただ、相手にしない、取り合わない、etc…とは、

 

物理的に何もせずに放っておく、ということではなく、

 

会社や家族や個人的な生活の中で、

 

具体的に対処せねばならない問題が生じたたときは、

 

その都度、自分の考えで普通に行動する。

 

むしろ、見過ごし、スルーし、笑い飛ばすのは、

 

〝これで正しいのだろうか〟〝間違ったらどうしよう〟

 

〝あの人にまた何か言われる〟〝嫌だなあ〟

 

といった感情が出てきた後に湧き上がってくる、

 

〝だから私は…〟〝やっぱり私は…〟〝また私は〟

 

のほうである。

 

怖いなら怖いのまま、ムカつくならムカつくのまま、

 

私がダメならダメなまま、逝かせてやる。

 

 

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統合や、赦しや、座禅や、ヴィパッサナー、なども、

 

自我を相手にしないためのツールなのだ。

 

統合は、鉄の球体を転がすことで思いをスルーし、

 

赦しは、聖霊に委ねることで罪悪感を見過ごし、

 

ヴィ瞑想は、肉体に集中することで思考をやり過ごす。

 

本当は何もしなくても、

 

その瞬間瞬間、完璧にケリがついて、

 

赦され切って消えて行っている。

 

その事実を目の当たりにする(確認する)ために、

 

赦しや統合や禅やヴィ瞑想があるのだと思う。

 

 

 

ビビらない日常

 

 

 

そういう訳で、何の問題もない今を普通に過ごしている。

 

本来であれば、もうキャリアを離れてしまったわけだし、

 

不安になろうと思えば、いくらでもなれるはずなのに、

 

今の僕には、全く全然これっぽっちも、迷いがない。

 

白黒はっきり決まりがついて終わってゆき、

 

また、新たに起こることが起こってゆく。

 

こう書くと、読者の皆さんの中には、

 

ただ受け入れることしかできない無力さとか、とか、

 

何の面白みもない虚無的な感覚が出てきそうだが、

 

そんな個人の自分が一切介在せず、

 

赦される必要も無しに赦され切っているその営みは、

 

そんなちっぽけでつまらないものなどではない。

 

それは、悟って幸せになるとか、

 

赦した後に本来の自分が見えてくるとか、

 

神の愛を感じて癒されるとか、源(神)へ戻るとか、

 

そんなことを考えている自己の領域とは全く別物の、

 

人間の考えの営みをはるかに超えた境涯である。

 

こう書くとまた、

 

何か至るべき境地があるように考えてしまうが、

 

それをも見過ごして(赦して)ゆくと、

 

もう、目も、耳も、鼻も、口も、皮膚も、脳も無しに、

 

その営みがむき出しになっているのが明白になる。

 

 

ただ、誤解を避けるために説明するならば、

 

自分がいないからといって、

 

個人が本来持っていたキャラが消失するわけではない。

 

星谷周作の性格や思考体系や感情表現など、

 

顕われてくるキャラは星谷周作そのままであり、

 

怒ったり、泣いたり、わめいたりする。

 

 

 

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そんな感じで過ごす深夜、iPodsを耳に装着し、

 

自分の部屋でデスクの明かりだけをつけ、

 

音楽を聴きながら書き物をしていたら、

 

この何にもどこにも属さない、ニュートラルな今が、

 

この2022年の夏至を通過するにあたって、

 

とても大切なものなのだとしみじみ実感されてきた。

 

全く違うパラレルへ移行するために、

 

一度全てをリセットする必要があったのだ。

 

と言っても、次にどんなパラレル並行するのかは、

 

全くうかがい知れないことだけれど…。

 

 

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在るの営み

👆父が生前、よく立ち呑みをしていた酒屋さん

 

 

以前の記事で、自分が存在しているという感覚は、

 

視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚、思い、といった、

 

〝6感〟から立ち上がってくる総合的な〝気配〟

 

によって成り立っている、というような事を書いた。

 

 

相手の目つきを見て、怒っている、と思ったり、

 

誰かの一言を聞いて、悲しい感情が出てきたり、

 

肌寒さを感じて、セーターを着ようと思ったり、

 

それら〝反応の活動〟を〝私〟だと捉えている。

 

しかし、怒ろうと思ったり、悲しいと感じたり、

 

セーターを着ようと〝決めている瞬間の自分〟を

 

絶対に捉えることはできない。

 

捉えた時にはすでに過ぎ去っている。

 

要するに出来事に対する感情や反応は自然に起こっており、

 

何を思ってどう反応するかを事前に自分で決めてから、

 

思ったり反応したりしているわけではないということだ。

 

この事からも、何かを成しえている自分なんて、

 

存在しないことがわかるだろう。

 

 

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しかし、自分はいない、起こっている事しかない、

 

が明確になってもまだその奥に、確固とした、

 

何かが〝在る〟感じがしないだろうか。

 

反応や感情といった〝6感〟が消え去っても、

 

まだ残っている何かの気配…。

 

スクリーンから映像が消えてもまだ、

 

そこにでーんと留まっている何か…。

 

そして、それは何だろう、と探った途端、

 

きえさってしまい、

 

いかなる〝どうすれば〟を駆使しても

 

決してたどり着けない究極の〝在るの営み〟。

 

しかしそれは、常にむき出しで、ここに在る。

 

(かといって何かが存在しているわけではない)

 

多くの人達が、禅の修行をして悟ろうとしたり、

 

赦しの実践をして神の国へ帰還しようとしたり、

 

その他さまざまなスピ的メソッドを使って、

 

辿り着こうとする衝動もまた、

 

この在るの営みに触れたいという欲動から来ている。

 

そして、その営みが6感に触れたとき、僕たちは、

 

悟り、解脱し、赦しが完結して神に出会うのだ。

 

 

 

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