👆 場末感漂う東梅田通り商店街
徹底的に、ひたすらに、ひたむきに、そして気負わず、
相手にしない、歯牙にもかけない、反応しない、
取り合わない、耳を貸さない、鼻もひっかけない、
気にも留めない、問題にしない、一顧だにしない、
スルーする、見過ごす、シカトする、笑い飛ばす…。
これが自我に対する唯一の対処法である。
その証拠に、完全認知症の人が自分に向かって、
さも、それが真実のように何かを語りかけてきたら、
僕らはたぶん、上記のように対処すると思うからだ。
ただ、相手にしない、取り合わない、etc…とは、
物理的に何もせずに放っておく、ということではなく、
会社や家族や個人的な生活の中で、
具体的に対処せねばならない問題が生じたたときは、
その都度、自分の考えで普通に行動する。
むしろ、見過ごし、スルーし、笑い飛ばすのは、
〝これで正しいのだろうか〟〝間違ったらどうしよう〟
〝あの人にまた何か言われる〟〝嫌だなあ〟
といった感情が出てきた後に湧き上がってくる、
〝だから私は…〟〝やっぱり私は…〟〝また私は〟
のほうである。
怖いなら怖いのまま、ムカつくならムカつくのまま、
私がダメならダメなまま、逝かせてやる。
統合や、赦しや、座禅や、ヴィパッサナー、なども、
自我を相手にしないためのツールなのだ。
統合は、鉄の球体を転がすことで思いをスルーし、
赦しは、聖霊に委ねることで罪悪感を見過ごし、
ヴィ瞑想は、肉体に集中することで思考をやり過ごす。
本当は何もしなくても、
その瞬間瞬間、完璧にケリがついて、
赦され切って消えて行っている。
その事実を目の当たりにする(確認する)ために、
赦しや統合や禅やヴィ瞑想があるのだと思う。