香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

兄貴と夏至の日

👆 兄貴の出現と同じくらい驚いたのがこれ!

   香港では4500円したサントリー角瓶が、

   1215円なんて…。平和堂すごい!すごすぎる!

  

 

今日が夏至の日だということに昨日の深夜気づいた。

 

というのも、昨夜午前零時を過ぎた頃、

 

「今日は夏至の日だよ」と言って、

 

久々に兄貴が僕の部屋に姿を現わしたからだ。

 

これまで香港でしか兄貴を見たことがなく、

 

実家のベッドの上に座っている兄貴を見ると、

 

ちょっと変な感じがした。

 

それでも、彼が姿を現したのはほんの一分足らずで、

 

あとはずっとテレパシーのようなもので会話をしていた。

 

 

兄貴は、この夏至の日までに僕を、

 

香港から日本へ戻すことができ、

 

心から安堵しているようだった。(なぜかは不明)

 

そして兄貴曰く、今年の夏至の日は〝僕にとって〟

 

非常に重要な意味を持っているらしい。

 

僕はいま、上げ膳据え膳の実家暮らしだが、

 

この夏至の日を境に、あらゆることが大きく変わり始め、

 

今後思いもしない方向へ人生が展開してゆくので、

 

起こることに抵抗せず、今この瞬間を信頼してゆけば

 

何の問題もないから大丈夫だ、と兄貴は告げた。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

決着がつき、赦され切った一瞬一瞬の営みが

 

明らかになってずいぶん経つからか、

 

夏至の日、と言われても全然ピンとこないし、

 

これから起きる展開に対しても、

 

今この瞬間瞬間の法悦を生き切って進めばよい、

 

ということが明確になっている。

 

ただ言えるのは、この素粒子レベルの世界では、

 

僕なんかにはうかがい知れない人智を越えた何かが、

 

現実のスクリーンの裏で走っており、

 

それらを熟知している兄貴が、肉体レベルの僕を、

 

優しく導こうとしてくれているのだな、

 

ということである。

 

例えば、

 

悟っていようがいまいが、この現実世界では、

 

上からものを落とせば下へと落下するし、

 

火の中へ指を突っ込むとやけどをする。

 

これと同様の物理的理(ことわり)が、きっと、

 

僕たちには分からない領域で起きているのだろう。

 

 

👇 過去の夏至の日シリーズ

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

夏至の日の今日は終日大雨だった。

 

家で静かに小説の推敲などをして過ごした。

 

以前は、夏至が近づくとすっごく眠くなったり、

 

めまいに襲われたりしていたのだが、

 

今回はそういうことは全く起こらなかった。

 

ただ、雨音を聞きながら部屋で静かに過ごしていると、

 

足元に白光色の光の磁場が広がりはじめた。

 

何千万匹のホタルが集結したような感じ。

 

この光の上にいるとなんでも赦せる気がする。

 

最近知ったのだが、

 

僕が以前から光の磁場と呼んでいるこの光って、

 

〝丹光(たんこう)〟と呼ばれものらしく、

 

目を閉じたり、夜や暗い場所で見えるものだという。

 

ただ、僕の場合は、

 

目を開けていても、昼間でも見えるので、

 

何とも言えないけれど…。

 

👇 久々にジンジャー・タウンを更新しました

shusaku1.hatenadiary.jp

 

 

それでいいのだ

👆 2012年に行ったマチュピチュの月の神殿

   この石の空間は波動調整器

   この中で瞑想をしたあと光の粒子が飛び始めた

   ここまで行くのに本当に大変だった

   

 

読者の皆さんはご周知のことと思うが、

 

僕は今、実家で母と暮らしている。

 

母にしてみれば、父を失くして一年足らず、

 

ようやく一人暮らしにも慣れてきたなと思った矢先、

 

30年もの間家を出ていた放蕩息子が戻ってきて、

 

飯を食わせたり、洗濯したり、しなければならない。

 

僕は僕で、香港での気ままな生活とは打って変わり、

 

高齢の母の生活リズムを崩さぬよう、

 

夜の外出は控えたり、力仕事は率先してやったり、と、

 

いろいろ気を使わねばならなくなった。

 

この様に、異なる生活をしてきた二人が同居すると、

 

いくら親子といえども、摩擦が起きるのは必至である。

 

 

今日も母が、テレビのリモコンが無い無いというので、

 

リビングの食卓の上にあったリモコンを渡すと、

 

「リモコンを使ったら、ちゃんとテレビの下に置いといて

 

もらわんと、どこに行ったかいちいち探さんならん」

 

と、まるでこっちが悪いみたいに言われたので、

 

「リモコンをここに置いたんは俺ちゃうし、

 

   それにテレビのところへリモコンを取りに行って

 

   チャンネル変えて、またテレビの所に戻してたら、

 

  リモコンの意味がないやろ。リモコンていうのは、

 

  遠くから操作ができるからリモコンていうんやっ!」

 

と、少々キレ気味な口調で言い返した。

 

「ちょっと言うただけで何でそんな怒られなあかんのよ」

 

と、そこからひとしきり言い合いが始まったりする。

 

それでも、3分ほどすると、一緒にアイスを食べながら

 

テレビを見て笑ったりしているから、親子って不思議だ。

 

 

そして、これでいいのだと思う。

 

親子、兄弟、恋人、夫婦、同僚、友達、嫁姑、など、

 

親しい者同士で言い合いをするのは愛の表現でもある。

 

たとえそれがどんなに醜い言い争いであっても、

 

その時その瞬間どんなに相手を憎んでいたとしても、

 

また、それが何回繰り返されたとしても、問題ない。

 

瞬間瞬間きちんと決着がついて消えていっている。

 

余計なことをせずに普通にしていれば、

 

次の瞬間には留まることなく変わってゆく。

 

 

僕たちはこれまでもそうやって生きてきている筈なのだ。

 

典型的な大阪のおばちゃんなんかは、

 

さっきまでぶつぶつ文句を言っていたかと思うと、

 

次の瞬間には大声で笑っていたりする。

 

ただ、悟った人と、大阪のおばちゃんとの違いは何か、

 

というと、そこに「瞬間瞬間完了して救われ切っている」

 

という〝智覚〟があるかないか、だけである。

 

しかし、この差は大きくて、智覚があることで、

 

ただ起こることが起こっているだけ、とか、

 

これ以外何もない、などといったつまらない領域を

 

はるかに超えた実相が明らかになる。

 

 

喧嘩し合っている夫婦って案外離婚しないものだし、

 

思いをぶつけることで親友の絆が深まったりする。

 

消えゆく姿として赦されていることが理解されていると

 

最初は相手を変えようとして始めた喧嘩も、やがて、

 

相手を理解し、受け入れ、認めていくプロセスになる。

 

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

僕たちスピ兄弟は、ネガティブな感情を表に出すと、

 

現実(自我)を実在化させていることになる、とか、

 

この戦いの周波数がまた悪い現実を引き寄せる、とか、

 

なによりも、相手から何か言い返されるのが怖いので、

 

できれば、何も言わずに愛に変えようとするのだが、

 

言わなくても思っている時点で同じである。(爆)

 

それで、その負の感情を、赦したり、統合したり、

 

感謝に変えたり、全受容しようとしたりする。

 

もちろん、それらの実践をすることによって、

 

赦され、統合され、完了したことが確認できるので、

 

実践メソッドを使うことはアリだと思う。

 

しかし本当は、いかなる実践をしなくても、

 

瞬間瞬間、赦され、統合され、手放されて行っている。

 

 

だからと言って、何でもかんでも感情を表に出して

 

言い合いをしろ、と言っているのでは決してない。

 

問題は、相手に何か言うことはよくないことだ、

 

(言いたくても言えないも含めて…)

 

という思い込みだ。

 

 

 

だれでも兄貴

 

 

 

週に三回のペースでゴールドジムに通っている。

 

ウェアも、靴も、タオルも、レンタルしているので、

 

いつも手ぶらで行って、手ぶらで帰る。

 

僕が行く午後の時間帯は、

 

高齢の男性やおばちゃんが8割くらいを占めるのだが、

 

それでもやっぱり、体作りの聖地ゴールドジムである。

 

みんなジムフィットな体つきをしていて、

 

ぶちゃっている人がほとんどいない。

 

ゆるい感じのティップネスやコナミとは違い、

 

みんなきちっとメニューを立て、

 

自分の体形をキープしている人が多い。

 

70歳位のおっちゃんでも体は引き締まってるし、

 

おばちゃんもスタジオではキレッキレで踊っている。

 

もちろん、本格的なビルダーの人もたくさんいて、

 

今日は疲れてるから、お遊び程度でやって帰ろう、

 

と思っても、周囲に釣られついつい頑張ってしまうのだ。

 




 

まだ、香港から帰国して一か月半くらいなのに、

 

香港での生活が遠い昔のことのように思える。

 

日本へ帰国したらきっと、退屈さのあまり、

 

刺激的だった香港での超都会生活に思いを馳せ、

 

あの時はよかったなあ、と懐かしんだりするのかな、

 

と思いきや、ほとんど、いや、全く思い出さない。

 

 

出張であちこち飛び回っていたあの日々も、

 

ランニングに夢中になっていたあの時期も、

 

あの時代はあの時代で完璧に終決して、

 

跡形もなくケリがついて完了していっている。

 

 

👇バリバリ〝言い聞かせ〟ながら実践していた頃

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

 

なんていうか、

 

香港で僕を助けてくれた多くの兄弟達は、

 

日本でも別の兄弟に姿を変え、

 

変わらず僕の周りにいて助けてくれている。

 

一見別々の人のように見えるけれど、

 

僕にとっては常に〝同じひとり〟が、

 

色々な肉体に姿を変えて、

 

僕の前に現われているように直覚されるのだ。

 

香港で別れたAさんを、

 

日本で出会ったBさんの中に観るので、

 

Aさんに会えなくて寂しい~っ、とはならない。

 

僕はすっごく大切な人を突然亡くした経験がないので

 

何とも言えないが(まあ、父とかは大往生だったので)

 

亡くなった人も同じように、人生の別のシーンで、

 

別の人となって、目の前に現われてくるのだろう。

 

そういう意味で、誰かを失うことは無いし、

 

どこで何があろうと大丈夫なのだと確信できる。

 

 

ひょっとして僕たちは、

 

これまでたった一人の人としか

 

出会ってこなかったのかもしれない。