👆父が生前、よく立ち呑みをしていた酒屋さん
以前の記事で、自分が存在しているという感覚は、
視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚、思い、といった、
〝6感〟から立ち上がってくる総合的な〝気配〟
によって成り立っている、というような事を書いた。
相手の目つきを見て、怒っている、と思ったり、
誰かの一言を聞いて、悲しい感情が出てきたり、
肌寒さを感じて、セーターを着ようと思ったり、
それら〝反応の活動〟を〝私〟だと捉えている。
しかし、怒ろうと思ったり、悲しいと感じたり、
セーターを着ようと〝決めている瞬間の自分〟を
絶対に捉えることはできない。
捉えた時にはすでに過ぎ去っている。
要するに出来事に対する感情や反応は自然に起こっており、
何を思ってどう反応するかを事前に自分で決めてから、
思ったり反応したりしているわけではないということだ。
この事からも、何かを成しえている自分なんて、
存在しないことがわかるだろう。
しかし、自分はいない、起こっている事しかない、
が明確になってもまだその奥に、確固とした、
何かが〝在る〟感じがしないだろうか。
反応や感情といった〝6感〟が消え去っても、
まだ残っている何かの気配…。
スクリーンから映像が消えてもまだ、
そこにでーんと留まっている何か…。
そして、それは何だろう、と探った途端、
きえさってしまい、
いかなる〝どうすれば〟を駆使しても
決してたどり着けない究極の〝在るの営み〟。
しかしそれは、常にむき出しで、ここに在る。
(かといって何かが存在しているわけではない)
多くの人達が、禅の修行をして悟ろうとしたり、
赦しの実践をして神の国へ帰還しようとしたり、
その他さまざまなスピ的メソッドを使って、
辿り着こうとする衝動もまた、
この在るの営みに触れたいという欲動から来ている。
そして、その営みが6感に触れたとき、僕たちは、
悟り、解脱し、赦しが完結して神に出会うのだ。
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