
👆 〝八百屋とごはん あさだ〟で夜ご飯
僕達は、自分の両親、息子や娘、職場の上司や部下、
または、電車で乗り合わせた人や通りすがりの人、
はては、ペットや好きな歌手やネット上の人に至るまで、
それらを〝私が所有している〟とどこかで思っている。
そして、この所有の意識から苦しみが生まれている。

僕で言えば、
僕のクラスの生徒達は、僕が教えるべき生徒であり、
僕が受け持つ〝僕の〟生徒だ、という意識がある。
なので、
生徒が自分の言うことを聞かずに勝手なことをすると、
つい怒りがこみ上げてきて、厳しくあたってしまう。
また、別の例で言えば、家庭や職場の中で、
皆の期待に応えられないんじゃないか、
失敗してみっともない失態をさらすんじゃないか、
役に立てていないんじゃないか、または、
この人がいなくなったらどうしよう、というような、
常に緊張感や恐怖を感じたりするその裏にも、
私が所有している私の家庭や職場、が隠されている。
私の職場、私の仕事、私の家族、私の大切な人、
だ・か・ら、拒絶されるのが怖い、
だ・か・ら、失うのが不安、なのだ。

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しかし、実際には僕たちは何も所有できていない。
なぜなら、この世の全てのものは神に属しており、
当然、僕たちも神に所有されている神の子だからだ。
生徒達も、職場の人達も、家族も、大切な人も、全て、
神に創られた神のものであって自分のものではない。
にもかかわらず、この〝お偉い私〟が神の代わりに、
彼らを所有し、彼らを愛し、なんとかしようしている。
要は、神のものを奪って、自分のものにしているのだ。

私のもの、と言い張っているもの、例えば、
私の家族、私のお金、私の車、私の能力、を
本来の持ち主である神に返却する。
僕で言えば、自分の生徒だと思っていた兄弟たちを、
彼らは自分のものではなく、神に属するものだとして、
彼らを自分の心の檻から神へと解放してやるのだ。
兄弟たちを神に委ね、任せることで彼らを返すのだ。

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先日、パキスタンの生徒が苦手、という話を書いたが、
そこには、自分が所有する生徒をちゃんと管理したい、
という欲求が働いていて、その思いを神に返すことで、
彼らは、僕ではなく、神に面倒を見てもらう存在となる。
ペットが死にかけていようが(誰のことや!)、
娘や息子から何の音沙汰もなかろうが(誰や!)、
ダンナがどんなダメ出しをしてこようが(誰やねん!)、
彼らの面倒を見るのは神であり、自分ではない。
先に自分が神から奪って所有したので、
上記のようなことが起こるとモヤモヤ苦しくなり、
そこから、奪い返される、という恐怖が出てくる。
そこから、何とかせねば、という不安が出てくる。
あらゆるものを所有しようとする自分を認めて、
全ての関係性を神へと戻してゆく。
そこに永遠の平安がある。