香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

やり尽くすのだ!

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👆 夕方なのに誰も乗ってこない
  不気味だ!

 

好きな人と大恋愛をして結ばれたり、

 

自分の夢を叶えて大成功したり、

 

お金持ちになって悠々自適に暮らしたり、

 

大好きなモノに囲まれた居住空間に住んだり、

 

気に入った車や洋服を買ったり、

 

世界中を旅して回ったり、と、

 

この現実世界で自分の夢や希望を叶え、

 

したいことを思い切り自分にさせてやることは

 

父が待つ故郷へ永遠に帰還する過程で、

 

非常に重要なことだ、と僕は思っている。

 

そこから得られる様々な愛や歓びを、

 

自分自身に味あわせてやることによって、

 

納得して夢を終わらせてゆくことができる。

 

 

というのも、ずっと以前、

 

『はい、終わり』という記事を書いたが、

 

魂の本質が望んでいることを表現せずに、

 

ただ、罪悪感だけを赦して終わろうとしても、

 

「本当にいいや。本当にもうやりきった」

 

とはならず、心が真に充足していないので、

 

結局、やり切っていないことをするために、

 

この夢の世界に再び引き戻されてきてしまう。

 

 

昔、兄弟てっちゃんに、

 

「自分はある程度の年齢を重ねて、

 

   やりたいことをやってからコースに出会えて

 

   本当によかったと思っているよ。

 

   もし、20代でコースに出会っていたら、

 

   この世で持つ様々な夢や希望を、

 

   真に楽しめなくなっていただろうから…」

 

みたいな話をしていた時期があったが、

 

それは逆だ、と今なら解かる。

 

 

こんな地獄でしかない世界はもううんざりだ、

 

二度と戻ってきたくない、という観点からでは、

 

永遠の帰還は難しいと思っていて、なぜなら、

 

その〝うんざりだ、もういやだ〟の裏には、

 

〝本当はこうしたかった〟が隠されているので

 

やはり、欠乏感を持ったまま逝ってしまう。

 

また、こんな地獄でしかない世界はうんざりで

 

一刻も早く父が待つ故郷へ帰還したい、

 

というのも、自殺する人の思考状態と同じで、

 

〝うんざり〟が先手に来てしまっているため、

 

やはり、罪悪感を持ち帰ってしまうことになる。

 

 

一体、どうせーちゅうねん、ということになるが

 

自分がやりたいことや、望んでいることに、

 

きちんと〝YES〟と言ってやるのは、

 

それを、現実に実行するかどうかは別として、

 

神へ戻るための〝第一歩〟となる。

 

 

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また、ここで、

 

「世界は実在しない、と真に認識した上でなら

 

 どんな好きなことをやってもいいんだよね」

 

的な、解釈のすり替えでやるのではなく、

 

ただ純粋に、今、この瞬間に顕われ来る、

 

愛や、歓びや、楽しみ、悲しみ、苦しみ、を、

 

自分なりの方法で思いっきり(👈ここ大事)

 

表現させてやるのだ。

 

 

また、やりたいことと言っても、それは、

 

歌手になるとか、ユーチューバーになるとか、

 

作家になるとか、会社をおこすとか、

 

そんな大それた望みでなくてもよくて、

  

2個500円のケーキがお得だけど、

 

本当に食べたいケーキが一個500円なら、

 

後者のケーキを買って味あわせてやる、とか、

 

怖くて〝嫌だ〟と言えないのなら、

 

ちょっと勇気を出して「ノー!」と言ってみる、

 

といったレベルのことから始めればいい。

 

いや、むしろそっちの方が大切だと思う。

 

 

それに、必ずしも、

 

やりたいことを実行に移す必要もない。

 

自分の心の中で、本当はどうしたいかを、

 

聴き、認め、受け止め、感じてやること、

 

それがとても大事なのだと思う。

 

 

👇 誰もが通る

  〝こんな世界うんざりなんだ期〟

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僕は〝赦し〟とは、ある種の〝納得〟だ、

 

と思っている。

 

だからこそ、赦しの前には〝許し〟があり、

 

自分を許容し、自分に許可を出すことで、

 

心が納得して癒され、そこから赦しが起こる。

 

 

だから、若い人は(そうでない人も)、

 

やりたいことを思い切りやればいい。

 

この夢の世界で、

 

本当の望みを表現して生きることが、必ずしも

 

世界を実在化させていることにはならない。

 

 

考えてみてほしい。

 

愛そのものである〝幸せな夢〟に、

 

「こんな世界はうんざりなんです」

 

と言いながら

 

辿り着けるはずなどないではないか。

 

 

体重58キロ

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👆 上海ストリートの昼下がり 

 

 

今日は仕事で旺角(モンコク)へ行く用事があり、

 

昼から外出をした。

 

モンコクは香港の原宿ともいえるエリアで、

 

オシャレをした若い香港人たちで賑わっている。

 

途中、上海ストリートの618ビルに立ち寄った。

 

中は、雑貨や化粧品を売る店が軒を連ね、

 

どの店も、古き良き時代の香港が体現され、

 

キッチュでレトロな感じを醸し出している。

 

 

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館内を歩きながら、ふと、自分は今、

 

自分の心の中を歩いているのだな、と思った。

 

自分は今、

 

自分の心の中を映し出した世界にいる。

 

背後で神の気配がわわわと立ち上がってくる。

 

と同時に、

 

嬉しいような、有難いような、安堵したような、

 

歓びの感じが空間に立ち込める。

 

ああ、自分が今、

 

幻想を見ていようと何をしていようと、

 

物事が起こっていようがいまいが、

 

世界があろうがなかろうが、

 

神の想いはいつもここに〝在る〟のだと解かる。

 

 

〝神だけが在る〟が本当に〝感じられた〟時、

 

〝世界はなかった〟を本当に智ることができる。

 

そして神は、いつも、ここに在った。

 

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その日の夜は、

 

セントラルのジムでトレーナーと筋トレをした。

 

一旦帰宅してから、再度支度をして出かけた。

 

久々に体重を計ってもらったら、58キロだった。

 

半年前は64キロだったのでかなり減っている。

 

しかも、筋肉量は逆に1キロほど増えていた。

 

 

「まだ、炭水化物が欲しくならないんです。

 

 ケーキやラーメンも全く食べたいと思わないし」

 

と、トレーナーに告げると、

 

全く炭水化物を食べないのはよくないので、

 

朝だけ、おにぎりを食べるように言われた。

 

聞けば、小麦より、お米の方が、

 

血糖値の上昇が緩やかなのだという。

 

ぜい肉はほとんど削ぎ落とされたので、

 

今後は筋肉増加に重点を置くことになった。

 

 

今日は、60キロのダンベルを両手に持ち、

 

合計120キロでベンチプレスをした。

 

8回挙げたところで、もうダメだあ、となる。

 

「あと二回挙げるっ!潰れても補助するから!」

 

トレーナーはいつものようにスパルタだ。

 

そして、大きく息を吐きながら、

 

最後の力を振り絞ってダンベルを上げた瞬間、

 

みぞおちに〝ハートの悦〟がドクンと入った。

 

これをどう説明すればいいのだろう、

 

在るそのものになった、とでもいうのだろうか、

 

感じるのではなく、感じるそれ自体が自分だ、

 

みたいな…。

 

やばい、と思った瞬間、

 

トレーナー氏がダンベルを引き取ってくれた。

 

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 そんな感じで、

 

例として、今日の出来事を二つ挙げてみたが、

 

まあ、だいたいこんな感じで毎日を過ごしている。

 

 

仕事中も、創作中も、ずっと神側にいる。

 

僕の場合は、

 

現実の出来事は起こっていないんです、

 

的なアプローチはすでにしなくなっていて、

 

「何をしようが、どこにいようが神の中」

 

を完全に受け入れている状態とでもいおうか、

 

背後だけに開いて生活している感じ。

 

 

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というわけで、

 

来週はイースターの休日で五連休となる。

 

今回が香港で過ごす最後のイースターになる。

 

思い切り香港を〝感じよう〟と思っている。

神の気配

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〝神に気づいている感じ〟を説明するのは難しい。

 

しかし、敢えて言うなら、

 

第一志望の会社から採用通知が来たときの、

 

やったーぁ、と小躍りした時の感じ?

 

女の子なら、好きで好きでたまらない彼から、

 

結婚して下さいと言われた瞬間、心の中で、

 

よっしゃーっ、とガッツポーズをとった時の感じ?

 

好きな人と愛し合っている時の幸せな感覚?

 

スポーツをする人なら、試合でメダルを獲って、

 

うおおおおーっ、と涙しているときの高揚感?

 

 

または、そんなに大げさなものでなくても、

 

お気に入りの何か…う~ん、例えば、

 

お気に入りの愛車に乗って悦に入っている時や、

 

大好きな歌手の歌を聴いて感動している時、

 

または、大好物のものを食べて、うっめーっ、

 

となっている時、などに感じる至福感?

  

 

こういった時に感じる法悦感(エクスタシー)は、

 

仕事中や食事中、普段の生活の中で、

 

常に体の中を流れているのだが、

 

僕たちは何か特別なことが会った時にしか

 

感じることができない。

 

というか、感じようとしない。

 

その、自分の中でいつも当たり前に流れている

 

そわっとした感じ、に気づくことが、

 

神の気配に気づいていることだ、と言える。

 

 

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そして、その法悦感を通して外界を見ると、

 

全てに神のエクスタシーが顕れているように思え

 

世界がまるで自分の味方になったように感じる。

 

 

僕の場合は、最初、日常生活の中で、

 

この感じに意識的に気づいていくことで、

 

神の気配に入っていった。

 

というのも、この感じは、言葉では説明できず、

 

ずっと自分の中に流れているものなので、

 

ちょっと現実に没頭しただけで、

 

〝それ〟だと気づけなくなる。

 

 

乗り遅れそうになった巴士に間に合った時とか、

 

クレミアのソフトクリームを口にした時とか、

 

何気ない冗談に思い切り笑っている時とか、

 

マッサージをしてもらっている時とか、

 

自分の家のリビングで小説を書いている時とか、

 

普段は、ラッキー、美味しかった、気持ちよかった

 

で通り過ぎてしまう、今、この瞬間、背後に流れる

 

形容しがたい〝悦な感じ〟、

 

これに、意識的に気づいていくようにしたのだ。

 

 

また、逆に、相手にすっごくムカついて、

 

「あいつ、むかつくーっ!腹立つぅーっ!」と、

 

思い切り怒りを発散させている時、

 

その裏に流れている〝怒りのエクスタシー〟

 

にも気づき、感じるようにした。

 

 

でも、この〝神の法悦感〟は、

 

意識的に感じようとしないと気づけない。

 

なぜなら、僕たちは、

 

〝美味しい〟をケーキが美味しい、にしてしまい

 

〝ムカつく〟をアイツにムカつく、にしているので

 

背後に在る、本当の〝悦〟に気づけないのだ。

 

 

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こうして、背後に神の気配が復活し始めると、

 

愛の循環が始まり、世界が一変してしまう。

 

怒っていても、不安がっていても、沈んでいても、

 

それらを神の感覚としてしか知覚できなくなる。

 

そうなのだ。

 

あなたが感じている、鬱々感、喪失感、切なさ、

 

なども、全て〝神の悦〟なのだ。

 

それが神由来であるがゆえに嫌っている。

 

神の気配を感じ、イヤやイヤや、と逃げている。

 

ネガティブな感情も、嫌がるのではなく、

 

抵抗を止め、認め、そのまま許容するしかない。

 

それが、神を受け容れる、ということである。