香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神の気配

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〝神に気づいている感じ〟を説明するのは難しい。

 

しかし、敢えて言うなら、

 

第一志望の会社から採用通知が来たときの、

 

やったーぁ、と小躍りした時の感じ?

 

女の子なら、好きで好きでたまらない彼から、

 

結婚して下さいと言われた瞬間、心の中で、

 

よっしゃーっ、とガッツポーズをとった時の感じ?

 

好きな人と愛し合っている時の幸せな感覚?

 

スポーツをする人なら、試合でメダルを獲って、

 

うおおおおーっ、と涙しているときの高揚感?

 

 

または、そんなに大げさなものでなくても、

 

お気に入りの何か…う~ん、例えば、

 

お気に入りの愛車に乗って悦に入っている時や、

 

大好きな歌手の歌を聴いて感動している時、

 

または、大好物のものを食べて、うっめーっ、

 

となっている時、などに感じる至福感?

  

 

こういった時に感じる法悦感(エクスタシー)は、

 

仕事中や食事中、普段の生活の中で、

 

常に体の中を流れているのだが、

 

僕たちは何か特別なことが会った時にしか

 

感じることができない。

 

というか、感じようとしない。

 

その、自分の中でいつも当たり前に流れている

 

そわっとした感じ、に気づくことが、

 

神の気配に気づいていることだ、と言える。

 

 

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そして、その法悦感を通して外界を見ると、

 

全てに神のエクスタシーが顕れているように思え

 

世界がまるで自分の味方になったように感じる。

 

 

僕の場合は、最初、日常生活の中で、

 

この感じに意識的に気づいていくことで、

 

神の気配に入っていった。

 

というのも、この感じは、言葉では説明できず、

 

ずっと自分の中に流れているものなので、

 

ちょっと現実に没頭しただけで、

 

〝それ〟だと気づけなくなる。

 

 

乗り遅れそうになった巴士に間に合った時とか、

 

クレミアのソフトクリームを口にした時とか、

 

何気ない冗談に思い切り笑っている時とか、

 

マッサージをしてもらっている時とか、

 

自分の家のリビングで小説を書いている時とか、

 

普段は、ラッキー、美味しかった、気持ちよかった

 

で通り過ぎてしまう、今、この瞬間、背後に流れる

 

形容しがたい〝悦な感じ〟、

 

これに、意識的に気づいていくようにしたのだ。

 

 

また、逆に、相手にすっごくムカついて、

 

「あいつ、むかつくーっ!腹立つぅーっ!」と、

 

思い切り怒りを発散させている時、

 

その裏に流れている〝怒りのエクスタシー〟

 

にも気づき、感じるようにした。

 

 

でも、この〝神の法悦感〟は、

 

意識的に感じようとしないと気づけない。

 

なぜなら、僕たちは、

 

〝美味しい〟をケーキが美味しい、にしてしまい

 

〝ムカつく〟をアイツにムカつく、にしているので

 

背後に在る、本当の〝悦〟に気づけないのだ。

 

 

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こうして、背後に神の気配が復活し始めると、

 

愛の循環が始まり、世界が一変してしまう。

 

怒っていても、不安がっていても、沈んでいても、

 

それらを神の感覚としてしか知覚できなくなる。

 

そうなのだ。

 

あなたが感じている、鬱々感、喪失感、切なさ、

 

なども、全て〝神の悦〟なのだ。

 

それが神由来であるがゆえに嫌っている。

 

神の気配を感じ、イヤやイヤや、と逃げている。

 

ネガティブな感情も、嫌がるのではなく、

 

抵抗を止め、認め、そのまま許容するしかない。

 

それが、神を受け容れる、ということである。