香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ほら、これがお前だよ!

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以前の記事でも書いた、

 

イラっとさせられる人、いちいちカンに障る人、

 

いつも一言多い人、微妙にウザいヤツ、など、

 

これって全部、愛に変わりたくて出てきた、

 

自分の中にある別の側面なんだ、

 

という認識が深まるにつれ、まるで世界が、

 

自分だけでできているように知覚されてくる。

 

 

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例えば、僕は至って礼儀正しい人間なのだが、

 

挨拶しなかったり、場をわきまえない人に対して、

 

なんやこいつ、となったりすることがよくある。

 

こんな時、

 

礼儀正しい自分によって裏側に追いやられた、

 

ざっくばらんで自由な側面の自分が、

 

俺もお前の中にちゃんと愛として存在しているよ

 

と、他者を通して現れているように見えるのだ。

 

例えば、天使のように無垢で優しい女性が、

 

ゲスの極みのような男を好きになったりするのも

 

彼女の中に眠る、自分も知らないゲスい側面が、

 

「ほら見て!私も愛としてここに存在しているよ」

 

と、ゲスい彼氏となって会いに来ている。

 

また、人を非難したり批判したくない、という人も、

 

本音では滅茶苦茶非難したいと思っているのに

 

人の非難なんかしない、清廉潔白な自分を、

 

(無理やり)前面に押し出し続けた結果、

 

俺のことも見てくれよ、と、自分が他人となって、

 

めちゃくちゃ自分に非難を浴びせてくる。

 

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自分の内面には、

 

ゲスな部分、狡猾な部分、ビビりな部分、など、

 

表面の自分には分からないあらゆる側面があり

 

その中で、自分が良しとしない側面を、

 

こんなの要らない、見たくない、と抑圧した結果、

 

その愛に変わりたい思いが、眼前の他者から、

 

「ほら、これがお前だよ」と差し出され続ける。

 

それを見て、私は人を非難したくありません、

 

と、そういうのを延々やっている。

 

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このループを止めるには、

 

出てきたものを自分だと認め受け入れること。

 

そして、人を嫌っても非難してもいいのだ、と、

 

許可を与えてやることだ。

 

なぜなら、その想いも愛の一部だからである。

 

気づかれ、見つめられ、感じられたことで、

 

赦された側面は愛として消えてゆくことができる。

 

 

僕の経験上、どんなエグイものを感じても、

 

罪悪感まみれになったり自己嫌悪にはならない。

 

それが愛だと分かった時、

 

感謝の想いが大手を振って戻ってくる。

 

 

今の強烈

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世界が次々に姿を変え、過ぎ去ってゆく中で、

 

背後にずっと変化せずに流れている〝平安〟に

 

意識を委ねながら毎日を過ごしている。

 

それが、兄貴に任せる、ということなんだな、と、

 

またまた理解が起きている今日この頃である。

 

 

「明日も仕事かあ。いやだなあ」

 

「日本へ帰国するにも手続きとかウザいなあ」

 

「寒くなる季節に完全帰国とか、哀愁すぎるっ」

 

と、少しでもジガ男のささやきが聞こえてきたら、

 

即座にジガ男ごと、背後の平安へ背負い投げ、

 

ジガ男も一緒に連れてゆく。

 

 

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また、平安に委ねるには、

 

今この瞬間に気づいていることが不可欠だ。

 

なぜなら、平安は常に今この瞬間に在るからだ。

 

そもそも僕達は今この瞬間にしか存在できない。

 

いくら、過去を後悔し、未来を憂いでみても、

 

その事を考えているのはやっぱり今この瞬間だ。

 

だから、僕たちは、今から逃れることができない。

 

それはまた、常に平安でしかあり得ず、決して、

 

神から離れることができないことをも意味する。

 

 

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しかし、僕たちはいつも、

 

今この瞬間に在る平安に抵抗している。

 

「今、これを我慢したら、将来ええ事あるでえ!」

 

「今、そんなことしたら、スッカラカンになるで!」

 

「今のままやったらアカん!もっと頑張れ!」

 

「今それ食べたら、太るでええー!」

 

こんな今はイヤや、今の自分が嫌いや、と、

 

今を我慢し、今の自分を無視し、未来に賭ける。

 

そのくせ、

 

「兄貴、私は平安を選びたい」とやっている。

 

 

 

強烈に今この瞬間に開いて、

 

不変の平安の流れに身を委ねていると、

 

時間が横並びではなく、眉間から前後に伸びた

 

〝縦軸の点〟のように知覚されてくる。

 

この〝今の点〟の中に、過去や未来の自分、

 

全てが内包されているように思えてくるのだ。

 

 

なんか、9月に入ってますます強烈に、

 

春が息吹くような、平和でありながらも、

 

ワクワクウキウキした歓びの感覚が、

 

意識の中に流れ続けているのを感じている。

 

その息吹の中で、もっと先へ進め、と促される。

 

 

状況は新たなフェーズに突入した。

(↑ 尾身会長かっ!)

未来から自分が会いに来る

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日々の日常の中で、メインで嫌いな訳ではないが

 

なあんか気に障る、という人がいたりする。

 

 

例えば、

 

ゴミ出しとか、何かと細かい事にうるさい近所の人

 

いつも、仕事をうまく人に振る、ずる賢い同僚、

 

言動がいちいち気に障るテレビやネット上の人、

 

など、自分の周りに、ついついイラっと来てしまう

 

ちょっとウザい人がいるとき、それって、

 

ひょっとしたら、愛に変わろうとして出てきた、

 

過去や未来の自分かもしれないという話である。

 

 

いうのも、最近、

 

あるコース兄弟のスピ動画をよく見ていて、

 

その人は、ご自分の今の境遇や心情、

 

そこからの気づきを、本当に正直に話されており

 

毎回、楽しく拝見しているのだが、その一方で、

 

「それって、ただの言い聞かせじゃないのか」

 

「人のことをどう、とかより、まずは自分だろう」

 

「それって、一言本人に言えば済むことじゃん!」

 

と、いちいち心の中でツッコみが発生するのだ。

 

 

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このとき、ハッと気づいた。

 

いろいろ気づきが起こって、進んでいる自分が、

 

まだそこへ至っていない兄弟を見ながら、

 

それは違うんだよ、と心の中でチッとやっている。

 

これって、昔、僕が毛嫌いしていた、

 

コース教師の姿そのものではないか、と…。

 

自分にもそういう〝年頃〟があったにも関わらず

 

それは違うと他の兄弟を無意識に批判している。

 

 

ということは、

 

何年か前に自分が毛嫌いしていた教師たちは、

 

この2021年現在の自分だったということになる。

 

その当時、そういう教師ばかりが目について、

 

愛がない、と、いちいちピキッ、となっていたが、

 

これは、愛に変わりたい、愛されたい、と、

 

未来の今からやってきた僕の姿だった。

 

 

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母親が子供に、上司が部下に、教師が生徒に、

 

お前、まだ分かってないなあ、とやるのは、

 

過去の自分に向かって、お前ダメだなあ、

 

とやっていることになり、それは自分に対して、

 

とても失礼で、愛のない行為であると言える。

 

 

なので、なんか気に障って仕方がない人がいる時

 

「ああ、愛されようと、過去から(または未来から)

 

 自分が自分に会いに来ているんだなあ」

 

と、しみじみ認識してみる。

 

 

そして、

 

彼ら(私)を受け入れ、彼ら(私)に全てを委ねる時

 

初めて、あると思い込んでいた世界が消滅する。