以前の記事でも書いた、
イラっとさせられる人、いちいちカンに障る人、
いつも一言多い人、微妙にウザいヤツ、など、
これって全部、愛に変わりたくて出てきた、
自分の中にある別の側面なんだ、
という認識が深まるにつれ、まるで世界が、
自分だけでできているように知覚されてくる。
例えば、僕は至って礼儀正しい人間なのだが、
挨拶しなかったり、場をわきまえない人に対して、
なんやこいつ、となったりすることがよくある。
こんな時、
礼儀正しい自分によって裏側に追いやられた、
ざっくばらんで自由な側面の自分が、
俺もお前の中にちゃんと愛として存在しているよ
と、他者を通して現れているように見えるのだ。
例えば、天使のように無垢で優しい女性が、
ゲスの極みのような男を好きになったりするのも
彼女の中に眠る、自分も知らないゲスい側面が、
「ほら見て!私も愛としてここに存在しているよ」
と、ゲスい彼氏となって会いに来ている。
また、人を非難したり批判したくない、という人も、
本音では滅茶苦茶非難したいと思っているのに
人の非難なんかしない、清廉潔白な自分を、
(無理やり)前面に押し出し続けた結果、
俺のことも見てくれよ、と、自分が他人となって、
めちゃくちゃ自分に非難を浴びせてくる。
自分の内面には、
ゲスな部分、狡猾な部分、ビビりな部分、など、
表面の自分には分からないあらゆる側面があり
その中で、自分が良しとしない側面を、
こんなの要らない、見たくない、と抑圧した結果、
その愛に変わりたい思いが、眼前の他者から、
「ほら、これがお前だよ」と差し出され続ける。
それを見て、私は人を非難したくありません、
と、そういうのを延々やっている。
このループを止めるには、
出てきたものを自分だと認め受け入れること。
そして、人を嫌っても非難してもいいのだ、と、
許可を与えてやることだ。
なぜなら、その想いも愛の一部だからである。
気づかれ、見つめられ、感じられたことで、
赦された側面は愛として消えてゆくことができる。
僕の経験上、どんなエグイものを感じても、
罪悪感まみれになったり自己嫌悪にはならない。
それが愛だと分かった時、
感謝の想いが大手を振って戻ってくる。