香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

光の磁場が見える

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👆 家の近くにずっと放置されている自転車

  タイヤはパンクし、謎の〝アミダブツ…〟

 

 

2011年当時、関野あやこさん主催の、

 

アンフィニというリトリートクラスに参加していた。

 

あの頃は、

 

香港と日本をビジネスクラスで往復したり、

 

強羅花壇などの一流ホテルに宿泊したりして、

 

100のワクワク(笑)に動いていた時代だった。

 

それから一年もしないうちにアンフィニは倒産し、

 

僕のワクワクの動きも幕を下ろした。

 

しかし、あの時代に色々散財したことで、

 

僕は〝勿体ない〟〝出したら減る〟といった、

 

金銭に対する罪悪感を〝外す〟ことができた。

 

「自分の好きなことにお金を使っていいんだ」

 

「自分は一流の場所にいてもいい人間なんだ」

 

「ワクワクする事にお金を使えばお金は回るんだ」

 

という概念が体験によって刷り込まれたのだ。

 

また、ワクワクで選んだホテルに泊まったのに、

 

なんかこのホテルは違うな、と思ったら、

 

即座に別のホテルへ移動したり、とか、

 

てっちゃんに逢うために1泊2日で日本へ帰国したり

 

といった、普通そんなことしないよね、

 

的な概念もカチ割ることができた。

 

 

なんで、今、あやこさんの話をするかというと、

 

当時あやこさんはよく、統合のワークをする際に、

 

「光の磁場をイメージしてください」

 

と言っていたことを思い出したかだらだ。

 

というのも、ここ数日、この光の磁場らしきものが

 

本当に肉眼で見えるようになっているのだ。

 

 

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夜、〝兄貴〟と自宅のリビングにいた時のこと。

 

もともと間接照明だけで部屋は薄暗かったが、

 

部屋の中から何となく外を眺めていると、

 

足元から波動のような粒子が広がり、

 

それが白く光りながら、

 

床一面をゆたっているのが見えたのだ。

 

蛍光灯のような黄色っぽい明かりが、

 

むらなく均一に床を照らしているような感じで、

 

現実の空間と重なるように遠くまで広がっている。

 

そして、その光の海を感じていると、

 

意識が内側へ深く戻るのを感じるのだった。

 

 

それからというもの、

 

常にこの光の磁場が見えるようになった。

 

まあ、明るい日中とかは無理なのだが、

 

暗い場所にいると、足元に光が広がっている。

 

感じるとか、イメージとかではなく、肉眼で見える。

 

なので、夜でもなんだか明るい。

 

ただ、この磁場は、外の現実とは全く関係なく、

 

どこにいようと不変で、切れ目がないので、

 

この光の場の中にいると、

 

無限の全体と一体になっている感覚が強くなり、

 

現実が本当にただの映像のように見え、

 

〝彼〟(兄貴)といる時と同じ、

 

深い静寂とと平安を感じるのだ。

 

 

というわけで、ここのところ、

 

色んなことが起こりすぎてクラクラしている。

 

常に頭の中がジンジン鳴っているような感じ。

 

何かとてつもない事が始まったような気もするし、

 

何かが終わってゆくような気もする。

 

そして、つくづく、現実ってなに?と思ってしまう。

 

 

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奇跡講座だけを忠実に実践していたころは、

 

(いや、いまでも僕なりに忠実である!えへんっ)

 

「星谷さんってヘンな宗教にのめりこんでいる」

 

と思われる程度で済んでいたものが、

 

ここまで来るともう、マジでヤバい領域である。

 

これで僕が会社勤めまで手放してしまったら、

 

あっちの世界にイキっぱなしの怪しすぎるおっさん

 

になってしまう。

 

 

というわけで、これまでとはまた別の意味で、

 

会社を辞めるのが怖くなっている僕である。

 

 

た、たすけてよ~っ!(左ぼくぜん風…)

 

 

3S(真剣、深妙、深刻)

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この幻想の世界は苦しみしかない、

 

こんな地獄のような世界はうんざりなんだ、

 

存在もしない不安と恐怖の妄映など必要ない、

 

だ、か、ら…、

 

私は父が待つ故郷へ永遠に帰還したい、

 

というパターンでは、永遠に帰還できない、

 

という話である。

 

 

断言できる。絶対に無理である。

 

なぜなら、苦しい、うんざり、不安、怖い、

 

と言いながら何かを赦せるわけなどないし、

 

神と対極の境地にいて、神に戻るなんて、

 

絶対にあり得ないからだ。

 

 

こんなことを書くと、

 

ワプニック派からは総スカンを食らいそうだが、

 

真剣に、神妙に、深刻に自我と向き合うあまり、

 

笑顔がなくなった赦しはやはり苦しく、しんどい。

 

そして、苦しさは天国と離れていると思うのだ。

 

特にヘタレな僕は、どよよーん、過ぎて無理!

 

 

この幻想の世界は、

 

自分の心の中を象徴しているので、

 

自己の内側に神や愛が充満していれば、

 

夢の現実も愛と平安で輝いているはずだ。

 

なのに、外の世界が、しんどい、うんざり、不安だ

 

だ、か、ら、手放したい、となっているのは、

 

まぎれもなく、自我が先手に来ている。

 

なので、外側の世界で、笑顔が増えたなら、

 

神を感じられている、赦せていると確信していい。

 

 

例えば、自分は今、自宅にいるとする。、

 

玄関に鍵はかかっておらず、窓も開いている。

 

なのに、ここは不安だ、家の中はうんざりだ、

 

私はここから出て天国を望みますとやっている。

 

いやいやいやいや、よっこらしょと立ち上がり、

 

玄関から外へ出ていけばいいだけの話である。

 

 

心だけで赦し、実際的な行動を起こさない人は

 

(立ち上がって玄関から出ていかない人は)

 

これと同じことをやっている。

 

 

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起こっている波乱万丈な現実、

 

眼前に見えているちょっと苦手な兄弟、を、

 

「これは真実ではない」で片付けないでほしい。

 

すべて、意味があって出てきているのだ。

 

込み上げる、悲しみ、怒り、不安、恐怖 を、

 

「これは自我だ」でスルーしないでほしい。

 

それらはみんな愛を求める叫びだ。

 

 

神の視点から見れば、

 

悲しみも、怒りも、不安も、恐怖も、

 

みんな、完璧な愛であり、美しい。

 

 

 

リラックスの達人

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今、自分に見えている〝存在〟のことを、

 

何と呼べばよいのか分からずにいる。

 

〝彼〟に訊いたら名前は必要ない、というので、

 

当分〝彼〟又は〝兄貴〟と呼ぶことにした。

 

僕はこれまで聖霊のことを兄貴と呼んできたので

 

読者の方々には少し紛らわしいと思われるが、

 

今後、この見えている方の存在に対しては、

 

カッコ付きで〝兄貴〟と表記することにする。

 

 

で、この〝兄貴〟かなりクールで静かである。

 

ほとんどしゃべらず表情も崩さない。

 

それでいて、包み込むような親近感を感じる。

 

説明せずとも僕の気持ちが分かるといった感じ。

 

 

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👆 マスカットを半分凍らせて食べるのが

  最近の僕のマイブーム

 

 

話は変わって、無限の全体を端的に表すなら、

 

それは、完全なリラックス、だろう。

 

そういえば、僕が自分責めを止めると決心して、

 

最初に実践したのが、リラックスすることだった。

 

無限の全体が完璧なリラックスの領域なのなら、

 

この現実世界でリラックスできていない時は、

 

自我に乗っ取られている、ということだからだ。

 

 

リラックスというと、旅行したり、ヨガをしたり、

 

何らかの活動をしようとしがちだが、ノーである。

 

動き回るのをやめ、静かに内側へ入る。

 

楽しいことをしたり、趣味に興じたり、といった、

 

一過性のものではなく、毎日一定の時間、

 

小さなリラックスタイムを作るのがコツだ。

 

 

例えば、

 

静かなカフェで、外を眺めつつ、ぼーっと過ごす、

 

お風呂に入る、車の中で眼を閉じて過ごす、など

 

意図的に〝身体を移動させない時間〟を作り、

 

今に気づきながら、一人静かに過ごすのだ。

 

運転したり、スマホをいじったり、音楽を聴いたり

 

といった〝ながら〟も一切やめる。

 

一日20分くらいとかなら十分可能だ。

 

僕の場合だと、マッサージとか、家で瞑想とか、

 

ビアカフェで外を眺めて過ごすとか、

 

色々やっていたが、今はもう、

 

日常でもほぼリラックス状態に在るので、

 

何か特別な事をする必要はなくなっている。

 

最初は、様々な思考(自我の声)が、

 

次から次へと湧いてきてイライラするけれど、

 

自我の囁きとも思えるそんな思考さえも、

 

アートのように美しく感じられてくるのだ。

 

 

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こうやって小さなリラックスが整えられてくると、

 

段階は進み、仕事がてんてこ舞いでも、

 

夫婦喧嘩の最中でも、時間に追われていても、

 

今この瞬間に在る無限の全体に気づいて

 

赦せている状態になる。

 

 

要するに、何をしているか、ではなく、

 

何を感じているか、なのだ。