香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

永遠の大丈夫

👆 香港にどんなに美味しいものがあろうと

   日本の美味しいには絶対敵わないと思う

 

 

コース兄弟や、非二元兄弟や、悟り兄弟たちは、

 

私はいない、他者など存在しない、世界は無い、

 

と〝無い〟の方へ意識をフォーカスしがちだが、

 

自分や世界に対して、ありありとケリがつき、

 

実相(真理)の営みが明らかになると、

 

逆に〝全部あった〟ことがハッキリしてくる。

 

しかし、この〝全部ある〟を理解で捉えてしまうと、

 

「望むものは全てここにあったあーっ」とか、

 

「完全な無限のひとつがここにある」というふうに、

 

必ず〝私の解釈〟が出てきてズレていってしまう。

 

見えているもの、聞こえているものさえもを超えた、

 

一瞬一瞬決まりがついて去ってゆく営みとして、

 

赦され切った一切が今この瞬間にはある。

 

だから、何が起こっても起こらなくても問題はなく

 

〝私〟や〝私の理解〟なんかなしに、

 

直接じかの〝全部〟。(が、存在ではない)

 

 

👆 昼間から牛肉の煮込みをつまみに
    ワインでプッハー!ああ、幸せ!

 

 

じゃあ、真に全部ある、とはどういうことかというと

 

どんなことがあっても大丈夫だ、ということである。

 

例えば、

 

やり甲斐のある仕事をしているときは大丈夫で、

 

失業して収入がなくなったら大丈夫ではない、

 

優しい旦那や、可愛い子供がいる時は大丈夫で

 

いなくなったら人生が地獄と化した、

 

健康で溌溂と人生を生きていた時は大丈夫で、

 

あなた癌です、と言われた途端、人生終わった、

 

と、大抵の人は、天国と地獄を行き来している。

 

そして、大好きな仕事をしている時が、

 

大好きな家族と一緒にいる幸せな時が、

 

何の病気もしていない健康な時が、

 

つまり、自分にとって大丈夫な時が、

 

少しでも長く続くようにと願いながら生きている。

 

しかし、人生にはいろんなことが起こる。

 

なんで自分だけこんな目になんて日常茶飯事だ。

 

その度に焦り、スピのYOUTUBE動画を見まくる。

 

 

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大好きな仕事をしていようがいまいが、

 

お金があろうがなかろうが、

 

大切な人が体を脱ごうが脱ぐまいが、

 

病気になろうがなるまいが、

 

みんな、やがて見事なまでに消えて行く。

 

どちらが損か得か、幸せか幸せでないか、

 

そんなことはどうでもいい。

 

なぜなら、どうせみんな終了するからだ。

 

永遠に留まれるものなど何もないと悟った時、

 

真の力が戻ってくる。

 

何があってもなくても動じることのない自分が、

 

大手を振って戻ってくるのだ。

 

 

諦めるのでもなく、受け入れるのでもない。

 

夢の世界で何も掴んでおくことなどできない。

 

そのことが明確になった時、苦しみは終わる。

なんで買っちゃったんだろう?

👆 今後は家の周りを散策しまくるぞ!

 

 

 

皆さんには、

 

買ってしまってから後悔したものってあるだろうか。

 

僕の場合はこれ、電動アシスト自転車である。

 

いや、香港にいたときから、日本へ戻ったら絶対

 

電動アシスト自転車を買おうと決めていたのだ。

 

車に乗っていくほど大げさな距離ではないが、

 

歩いていくにはちょっとしんどい、みたいなときに、

 

重宝するのではないか、と踏んだのだ。

 

特に、僕が住んでいる所は、街全体が都会で、

 

中心エリアも広いので、

 

電動自転車があれば便利だと思った。

 

それで、近くの大型自転車店に置かれていた、

 

ヤマハの〝PAS With〟の最新型を購入した。

 

 

しかし、皆さんご存じのように、電動自転車って、

 

ちゃんとしたメーカーのものは10万円以上する。

 

それから、パンク防止剤を注入してもらったり、

 

盗難防止用の鍵などをつけたりすると、

 

消費税も含めて12万円くらいになるのだ。

 

で、買ってから気づいた。

 

家からJRの駅まで歩いても10分であることを…。

 

ジムやデパートや市役所や商店街がある地域、

 

また、洒落たカフェやレストランがあるエリアへも

 

徒歩10分圏内で行けることを…。

 

坂道もなく、よく考えれば、自転車なんて要らない。

 

逆に、駐輪場のお金がもったいないだけである。

 

なのに、こんな高価な買い物をしてしまい…。

 

ううううっーっ!

 

必要のないものを買ってしまった、という後悔、

 

無意味なものに大金を使った、という罪悪感、

 

お金が減ってしまったことに対する不安感、

 

ないまぜになった感情がわわわと上がってくる。

 

 

これまで、少々無駄使いをしても平気だった僕が、

 

仕事をしていない今、蓄えで暮らしていく身となり、

 

使ったら無くなる、使ったらもう入ってこない、

 

という恐怖に直面し、面食らっている。

 

結局、自転車を買ったことが問題なのではなく、

 

〝無くなる〟という欠乏感が問題なのだった。

 

 

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今この瞬間を信頼する。

 

電動アシスト自転車を買った〝あの瞬間の今〟

 

本当に僕はそれが欲しいと思ったのだ。

 

それできちんとカタがつき、終わっている。

 

あの時ああしていれば、なんてあり得ない。

 

なぜなら、何かを決めている誰かは存在せず、

 

買わない、という思いがその時に現われない限り、

 

その行為を止めることなどできなかったからだ。

 

 

まあ、以前と同じようなお金の使い方はしないが、

 

これからどんな望みが湧いてくるにせよ、

 

今この瞬間の営みを〝普通に〟生き切ってゆく。

 

 

イヤなヤツの赦し方

 

 

久々にコースネタである。

 

奇跡講座(奇跡のコース)は何と言っても、

 

〝赦し〟の実践なしでは始まらない。

 

そんな中、

 

僕の経験上もっとも困難だと思われる赦しは何か

 

というと〝大嫌いな人を赦す〟ことだろう。

 

 

その時々で、定期的に出現してくる、

 

人は違うが、同じパターンの嫌いな人、

 

というのがいる。

 

例えば、

 

人前でなんでもズケズケ言う高圧的な上司に

 

我慢できず新しい会社に転職してみたら、

 

しばらくして、別の部署から、同じような、

 

キョーレツお局が異動してきた、みたいな。

 

また、付き合う彼氏(または彼女)がみんな、

 

お金にルーズなダメ男ばっかり、とか。

 

僕の場合は、ある一定周期で、

 

タメ口で偉そうな年下のヤツが出現していた。

 

そのほかにも、

 

空気読まないで自分の事ばかり言うヤツ、

 

上から目線でものを言ってくるヤツ、

 

ちゃんと謝れないやつ、八方美人なヤツ、

 

と、大嫌いパターンはひとそれぞれだ。

 

 

 

 

 

 

他人のある行為を見て、

 

イヤな気分になるのはなぜかというと、本当は、

 

その行為を自分がやりたいと思っているからだ。

 

本当は自分がやりたいと〝密かに〟思っている

 

行為を他人がやっているのを見て、

 

ある意味、嫉妬しているのだ。

 

 

ズケズケ言う人を嫌だと思う裏には、自分の中に

 

思い切りズケズケ言いたい、が潜んでいる。

 

偉そうなヤツに対して不快になるのは、

 

無意識の中に(👈本人には自覚がない)

 

自分も偉そうに振舞いたい、が隠れているのだ。

 

 

何しろそれは自分の〝密かな〟願望なので、

 

これを赦す最も手っ取り早い方法は、

 

実際に相手がやっている行為を、

 

自分もやってみることに尽きる。

 

 

空気読まないで自分の事ばかり言うヤツが嫌い

👉 一回、思い切り自分のことばかり語ってみる

 

上から目線でものを言ってくるヤツが苦手

👉一回、上から目線でものを言ってみる

 

ちゃんと謝れない人にチョームカつく

👉 一回、死んでも謝らない、をやってみる

 

八方美人なヤツを見たら刺したくなる

👉 一回、思い切りぶりっこしてみる

  

 

僕は、何でも〝すみません〟と言う癖があったが

 

死んでも言うもんか、とやっていたら、いつしか、

 

相手の方がすみませんと言ってくるようになった。

 

それからこれは、死ぬほど勇気がいるが、

 

一回か二回やれば、そういう人は現われなくなる。

 

これはマジで、面白いくらいにそうなる。

 

 

僕たちはできれば、外に対しては何にもせずに、

 

内側だけで処理したいと考えがちだが、

 

いくら、この人も愛です、とか、神の子です、と、

 

心の中で念仏のように唱えてみても、

 

すでにご存じのように〝何にも変わらない〟。

 

自分で自分を抑圧していた許せない部分が

 

他人に投影されて現れてきているので、

 

一度、勇気を出してそれに決着をつけない限り、

 

一生やってても〝赦し〟なんか起きない。

 

テキストを読んで言い聞かせているだけでは、

 

ただの時間稼ぎにしかならないのだ。

 

偉そうにする他者にイラつきながらも、

 

自分は怖くて言いたいことも言えない、とか、

 

人を不快にさせるようなことは言いません、

 

なんて、ある意味、すっごくゴーマンである。

 

 

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そういう意味で僕たちは、他人を赦しているようで、

 

本当は自分の中を赦しているのだ。