今日は朝4時にスービックのホテルを出発して、
クラーク空港から7時発の香港行きに乗り、
9時に香港の空港に着いた。眠いっ!
あまりに眠いので、空港のベンチに腰掛けたら、
いつの間にか眠り込み、起きたら午後1時だった。
結局、ちょこっと事務所に寄り、4時頃に帰宅した。
昨日からずっと男性のリビドーについて考えている。
はっきり言うと、男の性欲のことだ。
昨夜の、スケベおっさんトークが、
あまりに強烈だったからかもしれない。
男の僕が言うのも何なのだが、
男の性欲って、エゴそのものだと思う。
一なるものから、無数の物質(肉体)へと向かう意識。
ひとつの肉体の中に全ての女性性を観るのではなく、
無数の肉体の中に、それぞれ個別の女性性を感じ、
所有したいという衝動。
この無数のものに向かおうとする男性性がなければ、
エゴの幻想世界も存続不可能だったはずだ。
ただ、ここで言っている男のリビドーとは、
純粋に人を好きになるときの愛のことではない。
肉体としての性衝動の方向性のことを言っている。
なので、この幻想世界から目を醒まし、
父が待つ故郷へ戻ろうとする際には、
どんなに淡白な男性 (笑) でも必ず、
エゴの幻想世界を存続させてきた原動力とも言える
男性性を明け渡す必要に迫られる。
以前、アンフィニで、あやこさんに、
女性に対する性的欲求をどう統合すればよいのかと、
質問した男性の方がいらした。(僕ではない。)
「人が誰かを好きになるのはエクスタシーよね。」
みたいな回答で、いまいちすっきりしなかった。
これからは、一昔前のキャリアウーマンのように、
女性が男性に近づくのではなく、
無数のものを一なるものへと統合しようとする
女性性のほうへ男性の方が近づいていく必要がある
と思うのだ。
(あくまでも精神的に、という意味で…。
決してオネエになる、ということではない。)
このエゴの歴史のなかにおいて、
長い間、女性性が抑圧されてきたのは、きっと、
歪められた男性性を背後で突き動かしてきたエゴが、
女性性による解放と覚醒を恐れた結果なのだろう。
僕の場合、最近あまり、
男女の間に差を見なくなってきた。
もちろん、きれいなお姉さんに出会えば、
ときめきはするが、それよりももっと別な〝好き〟
が芽生えてはじめている。
その証拠に、以前なら全く気にならなかった
スケベおっさんトークに、
ものすごい違和感を覚え始めている。
神の子である兄弟を、
肉欲ベースで語るなんてありえない、
という感覚なのだ。
精神分析医のシンガー博士はこう言っている。
《男性的なるものは求め、探り、押し分け、突き進む。
女性的なるものはそれに譲歩し、
次の瞬間にはその下から穏やかに滑りだし、
緊張に満ちた静寂へと、相手を導いて行く。
そして最後には、決然としていながら優しく、
柔軟にして強靭、曖昧にして明瞭、
思考において焦点が集中していながら
知覚において拡散し、
育児に向きながら指導的でもあり、
与えながら受け取る、
という具合に、人はなるであろう。》と…。