ベトナム語を勉強している。
業務上必要となるのでやっているのだが、
昔のノートを読むだけなのであまり進歩がない。
それでも、毎日続けていると、少しずつ語彙も増え、
留学時代の感覚も戻ってくるから面白い。
そうやって、
今日は朝から地下鉄の中でベトナム語を勉強し、
リリー先生の所で二回目の歯の治療をした後、
商工中金が主催するセミナーに出席するため、
チムサーチュイの日航ホテルへ向かった。
二時間の講演の後に始まった立食パーティーでは、
お刺身や、おでんや、ケーキも出て、
低糖質ダイエット中の僕にはチト酷であったが、
肉類をたらふく食ってホテルを後にした。
そして、フェリー乗り場近くのジムで、
30分だけ筋トレをしてからフェリーに飛び乗り、
一路、佛山へと向かった。
フェリーの中での2時間は、
主に契約書類をチェックして過ごした。
佛山に着いてからは、
移動→ ホテル→ 散髪→ 足つぼマッサージ→
仕事仲間と本格日本料理→ 部屋で創作→ ヴィ瞑想
で、深夜零時ごろに就寝。
ベッドに横たわったとき、ふと思った。
今日一日、いろんなことを経験したけれど、
本当に自分はこれらのことを体験したのか、と…。
だって、
今日やったことの全てはすでに過ぎ去っていて、
いま、ここに無い。
そういうことをやった、という記憶だけを根拠に、
自分は確かにそれらの出来事を体験した、
と思っているが、本当に体験したという確証はない。
周囲の人たちに、確認して回ったとしても、
その人たちも記憶の話をしているだけである。
ひょっとすると、起こってもいない記憶を、
誰かに意図的に埋め込まれているのかもしれない。
それを知る手立ては、今のところない。
また、こんな主張をする人がいるかもしれない。
「過去に広東語をコツコツ勉強してきたからこそ、
いま、香港人と会話をすることができるし、
香港で仕事もできている。故に過去は実在しており、
現在に多大な影響を与えている。」と…。
それでも、広東語ではなく英語を勉強していれば、
それはそれで、
別の記憶を持った自分がここにいるだけである。
当然、記憶には、
自分にとって幸せで心地よい記憶と、
悪夢のような最悪な記憶とがある。
僕たちは、その中でも、とびきり素敵な記憶だけを、
一つでも多く集めようと毎日奮闘している。
例えば、
「今日はこんなレストランでこんな料理を食べた。」
「昨日はどこそこで、こんな素敵な体験をした。」
「頑張って勉強して、やっと何々の資格を取った。」
「誰々とどこどこで、すごく楽しい時間を過ごした。」
「スピ仲間とシェアし合い、気づきの共振が起きた。」
などなど…。
自分はまるで、一つでも多くの記憶を収集するために、
ベトナム語を頑張ってみたり、スピ本を読んでみたり、
どこかへ旅行をしてみたり、小説を書いたり、
しているのではないか、と思った。
しかし、いくら幸せな記憶を収集し続けたところで、
それは瞬く間に過ぎ去り、消えてゆく。
そこから、欠乏感が生まれ、
更にグレードアップした記憶を収集しようと、
あれこれ、やり始める。
しかし、よーく、冷静に、落ち着いて見てみると、
楽しく幸せな出来事も、苦しく悲しい出来事も、
過ぎてしまうと、どちらも同じただの記憶であり、
そこには、何の優劣も、差異も存在しない。
だからと言って、日々の体験は無意味だ、とか、
頑張る必要なんてない、とか、
過去はどうでもいい、と言っているのではない。
それを体験した記憶を自分のものだと思い込むな、
ということである。
僕たちは騙されているのだ。
記憶は収集するものではなく、
取り消されるために出てきている。
いま、この瞬間瞬間に体験する出来事を通して、
自分が今、欺かれているということを認識することで、
前世、過去、未来、未来世、に至るすべての
記憶データを削除してゆく。
でないと、記憶収集を、
生まれ変わっても延々やり続けることになる。
僕はもう、記憶の中で生き続けるのは勘弁である。
長居は無用だ。