今日は、上海で一緒だった弁護士さんと、
香港ゲートウェイのバーで打ち合わせをした。
当初、打ち合わせを終えると事務所へ戻る予定だったが
ワインを一杯頼むともう一杯がタダになる、と言われ、
昼間からグイグイやってしまった結果、直帰と相成った。
家へ帰る道すがら、通りですれ違うたくさんの人たち、
高層ビルの数々、喧騒、夕空、弁当屋に並ぶお弁当、
を見て、愛と感謝と歓びが、わわっ、と込み上げてくる。
日常を通して、心の中の神を観じているんだな、と思う。
自分はいま、神の声を聞いているのだ。
ハートのエクスタシーを感じながら日常生活を送るとは、
ズバリ、大恋愛の真っ最中に感じるキュンキュンを、
10倍くらい強力にしたエクスタシーで24時間を過ごす、
という感じに似ている。
ただ、大恋愛には相手が存在するが、
ハートの悦(エクスタシー)は、誰がいてもいなくても、
何が起こっても起こらなくても、ずっと流れ続けている。
全く同じではないが、身近な例で説明すると、
夕焼けの美しさ、誰かの小さな親切、美味しい食物
大好きな人に対する愛おしさ、の背後に流れている、
言葉では表現できない不変の愛と歓びの感覚、または、
誰かを死ぬほど好きになり、もう、本当に好きで好きで、
この人さえいれば、他に何も要らない、となったときの、
その何とも御しがたい幸せな感覚、
それが、ハートの〝悦〟(神の理解)の感覚に近い。
本来、その感覚だけに留まっていればよい話なのだが、
恋愛で言えば、相思相愛となった二人がデートを重ね、
セックスをし、互いの生い立ち、性格、趣味、仕事、収入
などを知るにつれ、当初、相手に対して感じていた、
純粋な愛の感覚が歪みはじめる。
あの人の実家は裕福だとか、お義母さんが偏屈だとか、
スリッパを履かずに素足で家の中をうろうろするとか、
果ては、セックスがいまいち、といった解釈によって、
ハートが自我に取り込まれ、そこから争いが始まる。
それでも、ここさえ我慢すれば他は許容範囲、という、
むりくりな解釈によって関係は維持され、
すったもんだやりながらも、結婚、出産、育児、孫の顔、
に至ってフィニッシュとなる。
って、何ですか、これ…?
相手の具体的な生い立ちや職業や性格を知ることが、
相手を理解することだ、と僕たちは信じて疑わないが、
実際、こんなの理解でも何でもない。
本当の理解は、当初感じていた、
「この人が好きで好きでたまらない。」のままを感じること
それが、神が自分を好きで好きでたまらない気持ちだと、
智っていることが真の理解となる。
というわけで、つい最近まで、この現実世界で、
幾多の〝浮世〟(笑)を流してきたボクであるが、
直接ハートそのものとして存在し始めると、
もう、ハートへ入ってゆくのに、
趣味や、ペットや、美味い食物や、恋愛や、家族、
といった〝呼び水〟を必要としなくなる。
なので、兄弟との肉体を使ってのハートの交流は、
もう卒業かな、と思っている。