日曜の午後、トレーナーの指導で筋トレをした。
100kgのバーベルでスクワット、80kgダンベルプレス、
三頭筋、背筋、腹筋、と、一時間みっちり全身を鍛えた。
一日経ってないのに、すでにお尻に筋肉痛が来ている。
明日はきっと、階段登れないだろうな。
夜は鶏肉のサラダを食べた。
ゲイリーの本に、
世界貿易センタービルに突入した旅客機は実は無人で、
ビルは爆破され、旅客機に乗っていたとされる人たちは、
CIAと黒幕の人たちに連れて行かれ、消えていった、
という話が出てくるが、香港でも同じ事が起こっている。
自分の息子が抗議活動に参加して帰ってこない。
逮捕されたのだと思って警察へ行くと、
「お宅のお子さんは逮捕者名簿には記載されていません。
家出か失踪だと思いますので、届を出してください。」
で、終わり。
出国した形跡もなく、狭い香港で失踪なんてあり得ない。
それも、一人や二人ではない。
最近、王立強、という30代の中国人男性が、
オーストラリアに亡命申請をし、話題になっている。
地元のテレビ番組に顔出しで出演し、
自分は香港で、サラリーマンを装いながら、
中国のスパイ活動を行なっていたと、暴露したのだ。
デモ隊の中にスパイを送り込んで情報を収集したり、
雇った中国人に、デモ隊を襲撃させたり、
中国の内政を暴露する書籍を販売する店主の拉致を、
指示したのも自分だと告白したのだ。
聞けば、知りすぎたが故に消される、と思ったことから、
今回の亡命と暴露を決意したのだという。
しかも、彼が語った情報が、オーストラリア政府が、
極秘に入手していた情報と全て一致していた、というから
驚きだ。
国家権力というのはここまでするんだ、と思うと同時に、
自我は、僕たちが興味をそそられるような、
どんな刺激的な話題でも提供するのだな、と感じた。
これも、VRゴーグルの中で起きている妄映に過ぎない。
物語はすでに設定済みで、僕たちはその脚本通りに
人生を生きている。
例えば、フィギュアスケートの羽生選手は、
小さい頃に、ひょんなきっかけで始めたスケートが、
自分でもなぜだかわからないけれど好きになり、
練習すればするほどめきめき上達して、
やがて、スケートのない人生など考えられないほど、
彼のアイデンティティそのものとなる。
しかし、どうしてこんなにもスケートに没頭しているのか、
彼自身にもわかっていない。
これはもう、物語がそのように展開するよう、
はじめからプログラミングされて生まれてきている、
としか言いようがない。
そして、僕たちひとりひとりも、あらかじめ、
〝そうなるように〟設定されて生まれてきているのだ。
たとえ、この仕事は自分には向いていない、とか、
仕方なく生活の為にやっている、と言ったところで、
僕らはあらかじめその脚本を生きる設定になっている。
だから僕は、時々執筆をしながら会社員として働く、
という設定なので、俳優や歌手にはなることはない。
今回はそういう設定ではないからだ。
また、
自分の人生、なぜこうなんだろう、ああだったらいいのに
と考えたりすることも多々あるが、それもただ、
今回は〝そうなる〟ように設定されていないだけで、
努力や日頃の行ないとは全く関係がない。
それに、あのとき、あれをしとけば今頃は、とか、
本当は歌手になりたかったんだ、とか、
あの人と結婚していれば今の私は、などという後悔も、
そういう設定なのだから、するだけ意味がない。
なぜなら、僕たちは、何百回と生まれ変わってきた中で、
絶世の美女も、どこかの国のお姫さまも、性悪女も、
イケメンで大金持ちのお坊ちゃんも、王様も、
宇宙人も、超能力者も、金メダリストも、
全ての役柄を体験済のはずなので、
今回の役が気に入らない、と、特段嘆く必要もない。
こうして見てみると、自分の努力で人生を切り開き、
実力で栄光をつかみ取っているように見えるが、
実は、設定でそうなるように、またはならないように、
はじめから、VR装置に組み込まれている。
自分では、世界をどうにもできないことに気づき始めると
夢の設定の中を延々ぐるぐる回り続けることに、
意味を見出せなくなってくる。
だってこの仮想世界には自分も含まれているのだから。
また、どんなエゴの仮想空間に設定された役柄も、
完璧な愛と幸せと歓びだけのストーリーはない。
必ず分離し、いいことと、悪いことを繰り返してゆく。
僕の場合、神の実存の世界(実相世界?)の方が、
より現実になってきているからか、自然に、
映像を映像として見ることができるようになってきている。
動揺はしても、それh実存ではないことがすぐに分かる。
完璧な欠けることのない神の世界がここにある、
自分はすでに故郷に戻っていて、ずっと故郷にいた、
神から離れたことなどなく、ずっと、神は在った、
神は歓びそのもので、平安そのものである…、
やはり、神が入っていないと、世界は無い、を体験しても
ただ虚無感に襲われ、世界が無意味に感じられる。
ノンデュアリティは、僕らを現実から解放してくれはするが
その先の実在が無いので、袋小路に陥ってしまう。
なので、
世界に(自我に)反応するのを本気で止め、
設定の裏側でずっと走っている〝実存の感じ〟
(神の感じ=歓びの感じ)に、本気で耳を傾けるのだ。