なんだか、日本でも新型肺炎が大変になってきたらしく、
うちの東京支社でもフレックスタイム制を開始した。
中国では、
習近平が経済優先路線を打ち出したその翌日から、
なぜか、広東省では感染者数がゼロに近い数になり、
感染者の3分の1が退院し、道路の封鎖が解除された。
ニュースでは、我々はウィルスとの闘争に勝利した、
などと謳っているが、どう見ても、ウソくさい。
それに、ウィルスと闘争って…どういうこと?
もう、ウケすぎて、吉本新喜劇の領域である。
それでも、中国の友人などに訊いてみると、おおむね、
「中国政府の対応は素早く、的確で、指導者は偉大だ。」
みたいな反応に終始している。
中国の市民によって撮影された、リアルな映像の数々
を見ている僕としては、なんとも複雑な心境だ。
中国版ツイッターであるウェイボーなどに投稿された、
新型肺炎の現状を伝える市民の映像や写真などは、
ほぼ、投稿と同時に削除されてしまうため、
中国国内の人たちは真の現状を知ることができない。
感染者数も、どういう根拠でカウントされているのかが
示されておらず、まったく信ぴょう性がない。
それでも、統制されることに慣れている大陸の人たちは、
政府の言っていることを、なんとなく信じてしまっている。
ウソ、統制、制限、誘導、建前、支配、分離、強権、
国家って自我そのものじゃん、と思った。
しかし、よく考えてみると、国家など、実在するのか?
そもそも、国家はどこにあるのだろう。
僕たちは、何を以って国家と呼んでいるのか。
習近平や安倍総理は国家ではないし、
法律や、国会議事堂や、国民も、国家ではない。
領土が国家かというと、それもまた、ただの土地である。
要するに、国家とは理念でしかなく、虚像でしかない。
株や通貨と同じ仕組みで、
多数の人たちがそれに価値がある、と信じることで、
存在していない国家という概念を実在化させている。
そして、自我もまたしかり、で、僕たちが認めなければ、
それを実在させることはできない。
いま、この瞬間には、国家など存在しない。
いま、この瞬間に在る神の中には、自我など無い。
いま、この瞬間に見えているのは、神が反映された、
小鳥のさえずりであり、春の木漏れ日であり、
毛布の心地よさであり、友人の笑顔である。
いわば、真の国家(神の国)は、その瞬間の中に在り、
そこでは、自分が国家(神の国)そのものとなっている。
そうなれば、夢の現実の中で、
中国にいようと、日本にいようと、何の関係もなくなる。
今、ここに在る神に留まることで、幻の国家は消える。