今日は、在留邦人の住所変更届を出しに、
セントラルにある日本国領事館まで行ってきた。
多くの日本人が帰国しているせいもあってか、
待合室に人は皆無で、手続きは10分で済んだ。
以前、聖霊兄貴が自分と同化しつつある、と書いたが、
昨日の〝香港ドルのユニット株どうする事件〟以降、
なんか、聖霊がずっと僕のみぞおちの辺りにいて、
見るもの聞くもの触れるもの、を片っ端から、
ひとつの解釈へと変換していっている感じがするのだ。
すれ違うサラリーマン風の男性が目に入れば、
サラリーマン風の男性 ⇒ 神とすれ違った、
これどうするんですか的な業務メールを受け取れば、
責められている感じ ⇒ 神から言い寄られている感じ、
店員さんから、ありがとうございました、と言われれば、
店員さんのサービス ⇒ 神から感謝されている
と言う感じで、瞬時に解釈が神へと置き換えられてゆく。
聖霊に訊く、聖霊に教えてもらう、と言うより、
ずっと聖霊がみぞおちの中にいる感じ。
脳ではなく、みぞおちの奥から〝神の想い〟が来る。
世界が〝神〟というひとつの解釈に置き換わることで、
無数の解釈で成り立っていた世界が無くなる。
なので、世界は無くても、見えるものは見えているし、
起きることは起きていて、するべきこともちゃんとできる。
それでもまだ、先日の〝コーヒーカップ事件〟のように、
様々な解釈は出てくるのだが、それも即座に、
みぞおちの辺りで〝神の愛してる〟に変換されてしまう。
僕のように会社で仕事をしていると、もう次から次へと、
様々な出来事が勃発し、様々な思いが湧いてくる。
だが、その度に立ち止まり、解釈を止める、
なんて芸当をやっている余裕も時間も全くないので、
やはり僕の場合は、先に〝神〟を智り、
神というひとつの解釈から見たほうが手っ取り早かった。
というわけで、明日はいよいよ全人代で、
香港の国家安全法が審議(挙手賛成)される日である。
もう何が起こっても起こらなくても、神でしかなく、
故に、それは本当に起こっては無かった。