香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

時間の消滅

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24時間が自分で使える自由な時間になると、

 

毎日があっという間に過ぎてゆくんだろうなあ、

 

と思っていたら、むしろ逆で、会社にいた頃より、

 

自分に気づいて今この瞬間を過ごしているからか

 

これと言って何かをしているわけでもないのに、

 

一日がすっごく濃密で長く感じられてくる。

 

意識が〝時間の無い今〟に没入できているので

 

5分の中に永遠が詰まっている感じがするのだ。

 

 

今の僕の場合、

 

一日の大半を小説を書いて過ごしているが、

 

例えば、主人公が体験する一日分の物語を、

 

原稿用紙5枚に2時間で書いたとすると、

 

実際に経過した時間は2時間だが、

 

僕の中では1日として体感されてくる。

 

 

会社にいた頃は、

 

午前中この会議でこれについて話し合い、

 

午後はあの案件の処理をして、といったふうに、

 

〝自分が〟時間の中を横軸に移動していたが、

 

今は、自分が時間の中を移動するのではなく、

 

時間が勝手に前方からやってきて、

 

背後へと縦軸に流れてゆく感覚である。

 

 

何が言いたかったのかというと、昨日書いた、

 

他者が自分でも問題はない、という感覚と同様、

 

今日が明日でも、100年後が今日でも、

 

1時間が1分でも、1日が1週間でも全然OKだ、

 

というふうに捉らえられてくるのだ。

 

 

またこれは、自分も他者もいないんです、とか、

 

時間なんて存在しないんです、といった、

 

スピ的な概念からくる単純な理解ではなく、

 

そういった、無い、とか、有る、とかも超えた何か、

 

自分には知ることができない不可知な何か、

 

としか言いようがないところから来ている。

 

 

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そして、そんな感覚で街を歩いていると、

 

通りをゆく人々、店で働く従業員の人たち、

 

行き交う車、建物、空気、匂い、街の喧噪、

 

全てが完璧な愛として存在しており、

 

それを見ている自分も、もはや自分ではなく

 

知ることができない何か、に思われ、

 

なんとも奇妙な感覚になるのだ。

 

ただそれは、愛とはこういう感覚だ、

 

というような、理解できるものではなく、

 

知ることができないもの、知った途端、

 

それはもう〝神〟でも〝愛〟でもなくなってしまい

 

それでもやっぱり、

 

常に変わらずここに在るもの…。

 

 

ぜーぜー。

 

僕の文章能力ではこれが限界だあ。

 

ただ、僕の今の状態は、軽い、嬉しい、穏やか、

 

巨大な安心感、大好き、笑顔、なので、

 

間違った道には逸れていないと確信できる。

 

 

 

 

 

自我の消滅

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正月早々、自我の話で大変恐縮なのだが、

 

自我のもっとも大きな必殺技は何かと考えた時、

 

それは何といっても〝自他の比較〟だろう。

 

自分の肉体と他者の肉体、私の地位と彼の地位

 

正社員と契約社員、自分の子供と他の子供、

 

日本人と中国人、お金持ちとそうでない人、

 

または、あの人は神への理解が進んでいるのに、

 

自分はまだまだこんなところにいる、というふうに

 

自分と他者の間に違いを見て比較することで、

 

内面に無価値観や罪悪感や優越感を生じさせ、

 

それが過度な頑張りや競争となって、

 

この物質世界に表われてくる。

 

 

そして、最近、僕の中で、

 

こういった〝違いを見て比較する〟という感情が

 

どんどん消滅しつつあるのだ。

 

 

僕に何が起こっているかというと、

 

自分と他者が、くるっと反転してしまったというか、

 

他者の方が自分だ、みたいな感覚になっている。

 

これも本当に説明が難しいのだが、例えば、

 

ジムで体を鍛えていると、周囲には、当然、

 

自分より若くてマッチョでいい体をしている人が、

 

たくさんいるわけだが、以前の自分だったら、

 

自分はまだまだだ、もっと頑張らねば、とか、

 

自分にはとても無理だ、と焦りを感じていたが、

 

今は、ムキムキなあの兄弟こそが自分なのだと、

 

比喩ではなく、本当にそう知覚されているのだ。

 

そういうふうに〝感じている〟のでもなければ、

 

他者の幸せを自分のことのように喜んでいる、

 

というような概念的な信念でもない。

 

自分と他者が入れ替わっていても何ら問題はない

 

というか、全てが自分、として捉えられている。

 

 

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友人が成功して大金持ちになったら、

 

自分が成功して大金持ちになっている。

 

友人の成功を見て幸せな気持ちになっている

 

というような低レベルなものではなく〝自分〟が

 

成功した金持ちそのものになっているのだ。

 

 

逆に、自分が至福を味わえば味わうほど、

 

それは他者の幸せである。

 

なので、自分が損をしないように、

 

相手から少しでも多く奪おうという行為は、

 

僕に言わせれば、他者から奪っているのではなく

 

自分から多くを奪っている。

 

 

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ここまで書いてきて、ふと気づいた。

 

これこそが、自我の消滅なのではないのか、と…。

 

違いを見て比較するのを止めることで

 

自我がなくなるのではなく、

 

比較する対象を間違えていたことに気づくことで

 

自我は自然と消滅するのだ。

 

総括2021

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謹賀新年、あけましておめでとうございます。

 

2021年は僕にとって、

 

とても大きな人生の分岐点となった年だった。

 

先ず、6月に長年勤めた会社を辞め転職をした。

 

それから、11月に転職先の会社も辞め、

 

会社員という檻を完全に手放した。

 

そして今、人生のアイデンティティとも言える、

 

〝香港〟という枠からも脱け出そうとしている。

 

こうして、僕にとっては激動の2021年となったが

 

中でも、おえええぇぇーっ、となったのが、

 

なんと言っても、彼(兄貴)の出現だろう。

 

一人暮らしの自分のアパートのリビングに、

 

青い背広を着た背の高い男が突然現れたのだ。

 

その後も兄貴は、

 

カフェの店員やバスの運転手に姿を変え、

 

あらゆる場面に出現するようになった。

 

 

過去の記事をみていただいてもわかるように、

 

僕はもともと、チャネリングとか、宇宙人とか、

 

アサンデットマスターとかに全く興味がなく、

 

いたって現実的な実践をしてきた人間である。

 

そんな自分が、

 

いないはずの誰かを相手に会話をしている。

 

自分でもドン引きである。

 

兄貴の手や体に触れる機会は何度もあったが、

 

普通にリアルな温もりと感触があった。

 

この事実は、見えない世界の方が本当なのでは、

 

という、意識的革命を僕にもたらした。

 

見えている世界だけを真に受けなくなったのだ。

 

 

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そんな感じで、2022年の僕は、

 

小説、インスタ、台湾を含む中華圏での活動など、

 

本音の僕自身を表現していく年となるだろう。

 

前回の記事で、香港の民主派メディアだった

 

《立場新聞》が解散させられた内容を書いたが、

 

今日、本音を表現していく決意表明として、

 

香港の現状に対する自分なりの想いを、

 

初めて〝中国語で〟インスタグラムに投稿した。

 

ハッシュタグも全て中国語、大きな恐怖が出た。

 

なぜなら、本音を表現したために

 

姿を消した香港人をたくさん見てきたからだ。

 

 

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〝自分を偽って檻の中で平安に生きるより、

 

 真実を語り本当の自分として死んだ方がマシ〟

 

 

これは誰かの名言ではなく、僕自身の言葉だ。

 

日本へ帰国した後、また中華圏へ戻ってこい、

 

と言った兄貴の言葉を受け入れ始めてもいる。

 

 

またこれは、

 

日々の日常生活でもいえることである。

 

会社で、家で、学校で、あらゆる場面で、

 

本音の自分として存在することは、

 

とても尊く、この上なく幸せなことなのだ。