香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

中だけの世界

 

 

昨日、一夜漬けで勉強した言語心理学の試験だが、

 

結果は、100点満点中、91点だった。

 

ある問題で、最初に書いた答えで合っていたのに、

 

何を思ったのか答えを書き換えてしまい、

 

結果、9点の減点となってしまった。

 

きいぃーっ! くやしい、クヤシイ、悔しいぃ~っ!

 

なんで答えを変えてしまったんだ、バカバカバカ!

 

金メダルを目指して闘ってきたアスリートが、

 

銀メダルで終わった時の悔しさってこんななのかも。

 

とまあ、そんな感じで思いっきり悔しがったあと、

 

〝チーン!〟と静かに沈黙して終わる。

 

ようし、次の文法の試験では絶対満点取ってやるっ!

 

(👆えっ?〝チーン!〟で終わったんちゃうんかい))

 

 

 

全てのことは、自分の中だけで起きている。

 

外で起きているのは、銀メダルだった(91点だった)

 

という事実のみなのに、自分の中だけで、

 

金メダル(100点)が獲れなくて悔しいとか、また逆に

 

銀メダル(91点)が取れて嬉しい、とかやっている。

 

事実はそれで完璧に終わってしまっているのに、

 

心の中だけで過去の事実をずるずる引きずっている。

 

 

 

 

例えば、前回、東京の兄弟てっちゃんちを訪ねた際、

 

彼から、4年前に僕が放った一言に思い切り傷つき、

 

悲しさのあまり泣いた、と告白された。

 

しかし、僕はそのことを全く覚えておらず、従って、

 

僕の中では全く起こっていないことになっており、

 

その事実を告げられても、罪悪感が湧かないのだった。

 

それでも、彼の中でそれは確実に起こったことであり、

 

今までずっと引きずって来た想いでもある。

 

なので、本当にごめん、と、彼に謝罪をした。

 

 

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イジメられた方は、当時の想いを覚えているのに対し

 

イジメた方は、案外、忘れ去っていたりする。

 

そう、全部自分の中だけで起きている想いを、

 

ずるずる引きずり、そのために苦しんでいる。

 

 

 

いま起きている平安に身をゆだねていれば、

 

銀メダル(91点)であっても何ら差支えがない。

 

 

人に対しても、例えば会社で、

 

事実は禿げたしょぼいおっさんが、

 

ただ眼前でキャンキャン喋っているだけなのに、

 

心の中では、上司からパワハラを受けている、

 

と認識してしまっている。

 

 

その目で、その耳で、ようく確かめてみてほしい。

 

心の中で起こっていると思っているそのことは、

 

今、本当にここに在るのか。

 

今、本当に起こっているのか。

 

答えは、絶対に、ノー、である。

 

スポ根で乗り切る

👆 生徒は真剣で、先生はプロフェッショナル!

   このクラスに導かれて本当に良かった!

 

 

いま、日本語教師になるための学校に通っているが、

 

明日、心理学の試験なので、

 

今日は一日、試験勉強をして過ごした。

 

奇跡講座でよく使われる〝形而上学〟という言葉も、

 

神や霊魂などを純粋に思考や直観によって認識しよう

 

とする学問であることを心理学の授業の中で学んだ。

 

 

毎週のように試験があり、60点以下だと即追試で、

 

出席率が80%を下回ると即終了~!となる。

 

国家が定めた420時間のカリキュラムを、

 

6カ月でこなす為、かなりスポ根な日々を送っている。

 

(※ほかの学校は1年かけてZOOMとかで学ぶらしい)

 

 

👆 今日は一日心理学のお勉強

    試験勉強なんて何年ぶりだろう

   でもなんか充実していて楽しい

 

 

僕達14期生は総勢26名で、真剣度も高い。

 

日本語教師の資格を取るには、

 

日本の4年制大学を卒業していることが必須なので、

 

そのために、並行して大学に通っている人もいる。

 

他の生徒さんに訊けば、この学校は、

 

卒業後すぐに即戦力となる人材を確保することを

 

目的としているので、模擬授業や実習に、

 

他校よりかなり多くの時間を割いているらしく、

 

卒業したらすぐ教師になることを前程で授業は進む。

 

 

そうはいっても、授業自体はすごく楽しい。

 

生徒を飽きさせない先生方の教え方も素晴らしいし、

 

しょっちゅうグループになって討論をするので、

 

生徒同士すぐに仲良くなれた。

 

教授法、言語心理学、文法、音声学、と進み、

 

来月からはいよいよ実習や模擬授業も始まる。

 

かつて僕も、

 

香港大学で日本語を教えていたことがあり、

 

生徒からもっと先生の授業を受けたいと言われた時は

 

すっごく嬉しく、もっと頑張ろうと思った記憶がある。

 

 

 

 

今日も、教授法を教えておられる先生に、

 

卒業したら台湾で暮らしたいのだと相談したら、

 

台湾の日本語教師の求人は4月と10月が多いので、

 

年明けから就活を始めた方がよいと言われた。

 

 

本当に台湾で日本語教師をするかどうかは別にして、

 

ふと、思いつきで始めたことが、意外な展開を生み、

 

ふと、気づいたら、思いもよらぬ場所へ運ばれている。

 

その証拠に、去年の今頃は、学校に通っているなんて、

 

夢にも思ってもいなかったから…。

 

 

👇そう言えば、すでに雄太について書いていた

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全ての抵抗を止めて起こることに委ねきり、

 

兄貴の完璧なマネージメントに完全に任せきり、

 

見えるもの、聞こえるもの、立ち上がる思いを、

 

全受容で受け入れてゆく。

 

〝こうなってくれないと嫌だあ〟を完全に放棄し、

 

その時々で起こることに委ね切って行動する時、

 

予想だにしなかった奇跡の展開が起こったりする。

 

(※起こらないことも多々あるのであしからず…)

 

 

認識した時には、それはもう起こった後であり、

 

僕達にはどうすることもできない。

 

その事を智覚することが〝降参〟の意味となる。

 

 

 

同宗他派

 

 

僕の場合、スピリチュアル的なことにせよ、

 

他の何にせよ、自分が信じているものを基準にして、

 

それと同じカテゴリーに位置する他のものを、

 

それは違うんですよ、と安易に否定するのが嫌である。

 

また、安易に同宗他派(笑)の誰かを指して、

 

(※同宗他派:例えるなら、同じ奇跡講座の中の、

  ナンチャラ派とコンチャラ派、みたいな感じのこと)

 

「別にそれがダメだと言っている訳ではないけれど…」

 

と前置きしたうえで否定したりするのも良しとしない。

 

 

どういうことかというと、

 

例えば僕は、自分が純粋非二元を実践していて、

 

非二元の人の言っていることが違うんじゃないかな、

 

と思った時、安易に違う、と決めつけるのがイヤで、

 

必ず、これだと思う非二元や悟りの導師の所に行き、

 

ちゃんと〝本当はどうか〟を見極めた上で否定しないと

 

納得できないタチなのである。

 

結果、これは違う、と完全否定できた

 

同宗他派のマスターは一人もいなかった。

 

まあ、ヘンな人の所には行かなかったこともあるが、

 

中身をきちんと学んでみると、みんな表現こそ違えど、

 

そこにはちゃんと〝愛〟があることが〝体感〟できた。

 

 

 

 

それぞれが何を語っているかは問題ではなくて、

 

AマスターとBマスターが全く逆のことを言っていても、

 

なんら差し支えがない。

 

大切なのは、どんなことを言っているのかではなく、

 

その裏に流れている〝想い〟(感じ)の方向性である。

 

 

政治家の発言や不祥事を起こした芸能人の記者会見も

 

裏に流れている〝想いの感じ〟を観ていると、

 

自然に本当のことを言っているかどうかがわかる。

 

僕らには本物を察知する力が備わっているのだ。

 

 

 

 

また、自分が信じるスピには出ていなくても、

 

量子力学をスピの角度から学んでみると、

 

神の想い(ハートの想念)が、フォトンという形で、

 

見えているものや、聞こえているものの中に、

 

顕れてくる仕組みがよく理解できたりする。

 

 

何が言いたのかというと、スピを学んでゆく上で、

 

自分が信じているカテゴリーや信奉するマスター、

 

属しているコミュニティーだけを基準にして、

 

他を云々するのは非常に危険だ、ということだ。

 

その他にも、例えば、

 

私はデイヴィッドの奇跡講座を実践しているけれど、

 

他のことをやっている人にも、

 

其々の導きがあるので否定はしません、

 

というようなスタンスも同様に危険だと思う。

 

こう言うと、私はそんなことは思っていない、

 

と反論されるかもしれないが、みんな案外、

 

無意識のうちに〝同宗他派否定〟をやっている。

 

 

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固執する、執着する、のは自我である。

 

それを無意識(👈ここ非常に重要)のうちに、

 

自分が信じているスピリチュアルの信念に

 

固執していたりする。

 

執着から解放されるためにスピを実践しているのに、

 

結局、それを信じていること自体が執着だった、

 

みたいな…。これってもう喜劇である。

 

なので、

 

信じることに対してもっと柔軟でいいと思うのだ。

 

そして最終的には、

 

自分が信じてやってきたものさえも、

 

手放す時が来るのだ。