
夢の世界で起こったと思える全てのことを、
徹底的に神に返し尽くしていると、
あらゆる葛藤、動揺、恐怖、怒り、悲しみ、不安、が、
神から離れた、と勘違いした結果だった、または、
父から罰を受ける、と思い込んだゆえの夢だった、
ということが、完全に真実として受け入れられてくる。
それはもう、
理解するのでもなければ、言い聞かせるのでもない。
神があたりまえ、みたいな感じになる。
なんていうか、自我に憑依されいる時間より、
神を思い出している時間の方が勝ってくるのだ。
去年の夏、本当に苦しくて、ベッドの上へ大の字になり、
「どんなことでも赦しますから、全部よこしてください」
と兄貴に大声で叫んだ瞬間から、何かが変わった。
どんな些細な赦しでも、必ず神まで戻り、
そこで、どんな勘違いが起こったのかを確認してから、
ウツボカズラで〝無条件に〟兄貴へ大放出しまくった。
絶対に神まで戻る、と決意して赦していると、
全てが神そのもの~、愛そのもの~、というような、
〝そのもの教〟におちいることもなければ、
そのままで神に愛されているから大丈夫、
というような非二元的なすり替えもできなくなる。
あらゆる現実的な問題からくる罪悪感に対して、
たったひとつの勘違いの場所にだけ焦点を合わせ、
そこへ、何度も何度も何度も何度も戻り、
何から何まで、神にお返しするスタンスで、赦した。
もちろん、そうした赦しは今も続いているのだが、
ここへきて、ひとつの段階を脱した、というか、
現実を完全に問題視しなくなった、というか、
どんな問題が起こって〝きいぃーっ!〟となっても、
それを真(ま)に受けなくなっている。
むしろ、チャンス、とさえ思ってしまう。
僕たちは、自分が絶対に見たくない過去の感情には、
ミルフィーユのような壁を何層も作り、
封印してしまう。
封印された感情は、自分の中には無いものとなり、
表面的には穏やかな毎日を送れていたりする。
自分の中に、
憎悪や恐怖の感情があるという実感がないので、
心に持っている罪悪感に気づけないのだ。
僕も神の愛を感じて〝ひゅんひゅん〟していた頃は、
もとから罪悪なんてなかったんだあ~、神しかなかった、
と悟った気になっていた。
しかし、もういやだ、もううんざりだ、と、
僕が隠蔽しているものを真正面から見る、と決め、
赦し始めた瞬間から、ミルフィーユが崩壊を起こした。
赦すことで自分の中の何かが変わる、のではなく、
何も変えなくてよかったことが明らかになった。
本当の意味で、
何があっても大丈夫な自分になっている。


