香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

夢の映写機



最近、また、就寝前にヴィパッサナー瞑想をしている。

通勤の地下鉄の中でも、スマホを見る代わりに、

簡易ヴィパッサナー瞑想をしながら過ごしている。


ヴィパッサナー瞑想は、

夢を映す投影機である肉体を細かく観察することで、

ひとつひとつの細胞にびりついた投影の元ネタ、

いわば、

エゴの想いである大量の0と1の設定を解除してゆく

ある種、強力な投影停止ツールだと言える。


普段、夢見る僕らは、

映写機のフィルム(肉体)に光(実相の光)をあて、

レンズ(目、眼球)を通して映像(現実)を投影する。

当然、肉体には無数の0と1設定がプログラミング

されているため、そこに神の光を当てれば、

実相は歪んで見える。その歪んだ神の影を見て、

僕たちはワーワーとちょちょまい続けている。


そんな身体(宇宙)を隅々まで認識してゆくことで、

その歪んだ影はただの影であり、無だったんだ、と、

エゴが光に晒され、消えてゆく。


映写機(肉体)の背後で映画(夢の映像)を見ている

決断の主体(眠っている神の子)へと、

とっ散らかった全ての0と1の設定を返してゆく。

これ以上、

エゴにフィルムを回す動力源(罪悪感)を与えない。


そうやって、ワーワー生きている自分は、

ただの夢見る映写機だった、と気づくことで、

その映写機を通して夢を見ていた、真の主体が、

神の子を自覚し始める。


要するに、もう、何を投影してもそれは夢でしかなく、

怒ったからと言って罪悪感を感じる必要もなければ、

何かが起こったからと言って恐れる必要もない。

全てはただの夢の設定であり、

悟って微笑んでいる人と、争っている人の間には、

何の差異もない。


重要なのは、

この出来事を自分のものとして感じなさい、

そしてそれを恥じなさい、罪悪感を持ちなさい、と、

背後の主体に命令するエゴの企みを認識することだ。

というわけで、今日は香港事務所でお仕事であった。

出張で溜まりに溜まった事務処理を一気に片づける。

午後になり、ある会社の人事部からFAXが届いた。

それは、以前うちで働いていた職員について、

退職理由や勤務態度について問い合わせたい、

という勤務調査同意書だった。

見れば、先週解雇をしたユイのサインがある。

彼女は早速どこかの会社の面接を受けたようだ。

それで、ユイを面接をした会社は、

本人が喋った内容と、実際の内容が同じかどうかを、

うちに確認してきた、というわけだ。


FAXを受け取ってすぐ、ユイに電話をした。

面接で辞めた理由をどう説明したのか訊いてみた。

彼女は、出張が多いので辞めた、と答えたらしい。

実際の退職理由は即時解雇だった。


ユイの電話を切ってすぐ、FAXを送ってきた会社の

人事担当者から電話がきた。

ユイの退職理由を訊かれたので、

僕は、業績不振によるリストラで、彼女の能力とは

一切関係がないものだ、と説明した。


まあ、今日は一日オフィスでゆったり過ごせたので、

ああだ、こうだ、とやり取りをしているニセの自分を、

決断の主体から観察しながら、放っておいた。

それから、いま、ここにある全てを、

背後の決断の主体へと〝引き渡し〟続けた。


夕方、みんなが退勤した後のオフィスでひとり、

ボーっとしながら、今日一日の出来事を思っていた。

勝手に湧きあがってくる様々な〝個の想い〟を、

「これ全部自分のものではない。」と委ねてゆく。

ふと、これらの想いを見つめているのは誰だろう、

と思った。

エゴの一部である〝個の自分〟が、エゴから来る

〝個の想い〟を見つめることなど不可能だ。


ああ、そうか。

自分が〝個の自分〟から出てくる想いに気づき、

それを認識してい時点において、すでに自分は、

決断の主体(神の子)の位置から世界を観ている、

ということなのだ。

言わば、この思考している自分も他者と同様、

外側へと分離させた多重人格者のひとりだったのだ。


自分を含む、この分離した世界の全てを見つめる

もう一人の主体。

もう、そこだけにとどまってゆく。