素粒子的日常が普通になってくると、
〝自分責め〟がいかに素粒子(愛や調和)
を歪めるかということを思い知らされる。
僕には子供がいないので、
今から書こうと思っている例は、
僕自身にはあまり当てはまらないのだが、
他によい例えが思い浮かばなかったので、
頑張って書いてみる。
例えば、
自分の愛娘(または息子)が、自分に変身して、
自分の職場で働いているとする。
自分は透明人間になってその様子を見ている。
そこへ上司や同僚が次々にやってきて、
自分に変身した愛娘(または息子)に、
「それくらい、ちゃんとやっといてくれよ」
「この案件もそちらでやってもらえます?」
「会議の資料まだですか。待ってるんですけど」
と、食い気味にツッコんでくる。
自分に変身した愛娘(または息子)は、
すみません、すぐやります、と、
上目遣いに謝りながらテンパっている。
もともとその愛娘(または息子)は自分なので、
彼女(または彼)がどんなに緊張していて、
どんなにちょちょ待っているかは理解していて、
「ちゃんとやってるだろーが!」とか
「その仕事、そもそもお前がするやつだろっ!」
という心の中のツッコミも聞こえている。
とこんな感じで、自分に変身した自分の子供が、
自分の職場で不当な扱いをうけているのを
目の当たりにしたとき、親であるあなたは、
「おい、おまえら、いい加減にしろよ!」と、
同僚に食ってかかるのではないだろうか。
👆 ここが香港の刑務所
大澳へ行く途中のバスの中から撮影
でも、よく考えてみると、ちょっとおかしい。
自分の愛娘(または息子)が、
まるで玄関マットのように踏みつけにされ、
ひどい目に遭っていたら牙をむき出しにして
守ろうとするのに、これが自分だったら、
何も言わずに我慢してしまう。
守るどころか、これがコース兄弟であれば、
それを赦そう、と、謎の行動に出てしまう。
そして問題はそこに在ると思うのだ。
大切な人が、
不当に扱われているのを庇うのは正義であり、
自分が不当に扱われているのを庇うのは、
自己主張であり攻撃だ、と思っている。
または、これがコース兄弟とかだと、
そんな自分は実在ではない、と、
自分を無いものとして見過ごそうとしたりする。
だが、感じてしまっている時点ですでに、
そんな自分を実在させているため、結局、
見過ごすことができず、モヤモヤだけが残る。
少し前の一時期、僕はこんな感じだったと思う。
だが、あるとき、彼らが自分を不当に扱う前に、
自分で自分を不当に扱っていた事に気づいた。
自分がそのままで完璧な愛であり、
父から全肯定されている存在であるならば、
自分のことをそのように
〝扱って〟やらなければならないのに、
玄関マットのように扱っていたのだ。
しかし、無限の全体側(内なる天国)だけを、
真実として生きようと決め、実際そうし始めると、
どんどん自分に愛(神)が戻ってきて、
どんな自分にもオーケー、と、
許可が出せるようになり、最後は、
恐怖からの主張や攻撃からではなく、凛として、
自分が言うべきことを言えるようになった。
そうなると、周囲が愛で輝きだすようになり、
逆に相手が、僕を〝肯定されている者〟として、
僕に接してくれるようになった。
本来、自分は神を含んだ存在であるので、
自分を責めると神を責めてしまうことになる。
そんな状態で、他者を愛で観るなどできっこない。
これはもう、赦しの実践以前の問題だ。
なので、なにはともあれ、自分である。
自分に寄り添い、自分の内側の声を聞くのだ。
そして、嫌なものは嫌だとキチンと表明するのだ。
それが、エゴに対してノーを表明することであり、
エゴを拒否することになる。
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