〝自分の両手を向かい合わせにしたときに、
両の手は背後の腕を通してつながっている〟
という読者の方から寄せられたコメントが、
いま、すごく僕の心に響いている。
凄いことに気づかれたのだなあ、と思い、
大きな衝撃を覚えたのだ。
詳しいやり取りは、ローラの記事のコメント欄を
ご覧いただくとして、読者の方が言われる通り、
左手が自分で、右手が他者だとすると、
両手を合わせれば、私とあなたは、
背後の胸(みぞおち)で繋がっている。
これはまた、左手と右手である自己と他者が、
みぞおちの部分(ハート/無限の全体)で、
ひとつになっている、とも言え、
右手(相手)と左手(わたし)は、
このみぞおちを中心に別方向へと広がっている。
みぞおちの少し奥の部分はまた、
神の愛を身体的に感じられる場所でもある。
例えば、合掌をすると心が落ち着いたり、
愛する人と抱き合った時、みぞおちの辺りが、
歓びでキュンキュンしたりするのは、
両手やみぞおちを重ね合わせることで、
別方向へ広がっていた意識が、
この一つの場所(本当の自分がいる場所)へと、
戻ってくる感覚を体感しているからだと言える。
だから、合掌をして何かを祈ったり、
ハグをし合ったり、握手を交わす行為には、
なにか、大きな意味があるように思う。
また、左手と右手を合わせた時にできる隙間が、
自己と他者が向かい合っている空間、つまり、
この現実世界を表している。
普段僕たちは、
こんなこと言われた、あんなことやられた、と、
手と手で押しくらまんじゅうをしているのだが、
本当は中心のみぞおちで感じている。
それぞれが、それぞれの感情を持っているように
思っているが、一つの場所で同時に感じている。
なので、ひとつで感じていることを理解して、
抵抗をやめ、其々が自分の腕側(背後/自分側)
へと意識を向かわせることで、手と手が離れ、
最後は、手も腕も、みぞおちへと還る。
そこで真の私は、真の他者と出会い、
ずっと父が待つ故郷にいたことを知るのだ。
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とまあ、こんな感じで、僕のファンタジーは、
どこまでも飛躍してやまないのだが、
両手で意識の流れをを説明できそうな気がする。
左手を自己、右手を他者と見立てて合掌し、
みぞおちのハート(神の位置)から、
両手のせめぎ合い(自他のせめぎ合い)を
見つめたりするワークとかやったら、
案外面白いかも…。(笑)
ふうさん、
両手で神を知るワークショップ、お願いします!