👆夕方、近くのスーパーに買い物に出てみると
天神祭りの花火が上がっていた
すっごい人だかりで、夜店も出ていて、
スーパーまで30分くらいかかった(7月撮影)
先日の記事の続きだが、
大好きな歌を聴いて、感動で涙を流したり、
恋人やパートナーのことを愛おしい、と思えたり、
飼っているペットに無条件の愛を感じたりしているのは、
神の愛そのものを〝歪めて〟感じている、と言える。
別の角度から見れば、
大好きな歌手の歌なら、感動で涙を流してもいいが、
直接神を感じて感動の涙を流すのはイヤッ、
恋人になら愛してると言えるが、
神に愛してると言うなんて絶対無理、
ペットだったら無条件の愛を注いでもいいが、
神から無条件に愛されるのはお断り、という、
なんとも傲慢なことをしている。
もし、この車やバイクのカッコよさに神を感じたり、
この歌声はまさしく神だ、と言うのであれば、
会社の上司を見ても、浮気している夫と対峙しても、
同じように愛を感じていなければおかしいことになる。
なぜなら、神の愛は無条件だから、だ。
これなら愛で、あれならダメ、と言うのであれば、
それはもう、完全に神を〝歪めて〟感じている。
いや、別にいいのだ。
直接神に向かうには怖すぎるので、
好きな歌手の歌や、趣味や、パートナーを通して、
愛おしい神の感じ、を体験することで、
直に神の愛を感じるための呼び水になったりする。
しかし、これが、
「最近、神の使者を読破しましたあー!」とか、
「実践2年目の、フレッシュコース兄弟でーす!」
みたいな、初々しい兄弟ならまだしも、
年季の入った10年選手のコース兄弟であれば、
さすがに、もうそろそろ、
いつまでも呼び水に留まっているのはやめようよ、
と言う話である。
なぜなら、
じゃあ、大好きな歌手や、恋人がいなくなれば、
神を感じられないのか、という話になってくるからだ。
👆 花火を見てヌレヌレ?
じゃあ、具体的に何をすればいいかと言うと、
〝ちょこまか動き回らずじっと沈黙している〟である。
今に開いて抵抗せず、見えるまま、聞こえるまま、
どんな雑念が浮かんできても、流れのまま受け入れ、
何もせず、静かにじーっと今に委ねて過ごすのだ。
これをすると、多くの兄弟が、雑念や思考に支配され、
いたたまれなくなって、スマホをいじり出したり、
何か食べ始めたり、外出したり、
盗んだバイクで走り出したり(笑)してしまう。
ただ、誤解をしないでいただきたいのは、
現実世界で色々なことを楽しみ、そこに愛や喜びを
見いだすのをやめなさい、と言っているのではない。
ただ、時間の短縮を実行するのは、
今ではないいつか、などではなく、
まさに今この瞬間だ、ということである。
そして、ほんの一瞬を捧げ、直で神を智った後で、
大好きな歌手の歌を聴いたり、恋人と過ごしたり、
盗んだバイクで走り出した時(笑)、
もう、呼び水どころではない法悦の愛を感じて、
ヌレヌレになってしまうのである…。