香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神をねじ伏せない

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👆 向かいにめっちゃイカちい兄ちゃん登場。

  終始睨まれているようで、ちとビビる。

  でも、オレはオレを生きてるぜ、

  みたいな感じで、なんかカッコいい。

  

 

今日は、トレーナーとの筋トレの後、

 

久々にビアカフェで9%のビールを飲みながら

 

アニータの本を読んで過ごした。

 

 

〝神とは存在ではなく、存在のあり方である〟

 

〝あらゆるものは無限の全体に属している〟

 

〝自分がありのままでいる許可を、

 

 他人やマスターに求める必要などない〟

 

〝本当の自分でいて真実を生き、愛であること〟

 

 

3年前の自分だったら、

 

ああ、知ってる知ってる、で終わっていた言葉も、

 

実際にその言葉の中を生きてみると、

 

愛で存在するだけで、世界が癒されてゆくことを

 

まざまざとこの世界で体験できる。

 

 

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 赦しの過程で、

 

僕たちは以下のような循環をやりがちだ。

 

 

何で俺がこんな事を言われなきゃいけないんだ

 👉 世界はない。だから自分のこの怒りも無い

 

あ、しくった。上司になんて言われるだろう

 👉 罪なんかないし、上司も愛です

 

自分だけいつもハミゴにされるんだよなあ

 👉 起こっていることに意味なんかない

 

うわっ、最悪や、ドツボや、マジ終わった

 👉 全ては最善

 

 

ちょっと待ったぁー!

 

実際そうかもしれないが、切り替えが早すぎる。

 

自分の本音の想いが反映されて出てきたのを、

 

そんなものは無い、とねじ伏せてしまっている。

 

 

ムカつくーっ!こわいーっ!悲しい!悔しい!

 

をスルーしながら、世界を愛で見よう、

 

あの人は存在すらしていない、とやっても、

 

それこそ、まったく、意味がない!

 

 

「もっと大切に扱われたかったんだ」

 

「本当はこんなことなどしたくなかったんだ」

 

「本当は怖くて怖くてしかたないんだ」

 

こういった自分の本音の思いをパシッとつぶし、

 

世界はない、起こってない、これに意味はない、

 

とやっても、それはただ、自分の本心を直視する

 

恐怖から逃げているだけである。

 

 

無視された思いは、背後を通って、

 

他者の口から何度でも吐き出されてくる。

 

それを見てまた、意味はない、罪はない、とやる。

 

そうやって、無い無い、と延々やっている。

 

終わりないループ。

 

そんなのもう、悲劇を通り越して喜劇だよう。

  

 

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苦しいよう、助けてよう、もう限界だよう、

 

といった自分の本当の気持ちを、感じて受け止め

 

理解してやれるのは他でもない自分だけである。

 

だから、決して、決して、

 

自分の気持ちを置き去りにしてはいけない。

 

その置き去りにしている思いこそが、

 

神の思いだった、ということに気づくべきだ。

 

 

と、今夜は少々酔っぱらい説教オッサン、

 

で、フィニッシュ!

 

 

オレがついている!

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通りを行く見知らぬ人達が、なぜかみんな、

 

優しく、愛に満ちた、頼もしい存在に見える。

 

みんなが寄ってたかって、

 

僕を助けようとしているように思えて仕方がない

 

と、以前から連呼し続けてきたが、

 

最近、周囲の全ての兄弟たちが放つ、

 

〝我々が付いているから大丈夫感〟が、

 

以前にもまして半端なくなってきた。

 

 

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そこで自分でも、ちょっとドン引きなのだが、

 

駅の構内を歩いていたり、バスに乗っていたり、

 

カフェの窓から外を眺めている時などに、

 

すれ違ったり、通り過ぎていく人々の、

 

外見や雰囲気だけを見て、

 

この人はどのように僕を助けてくれるだろう、

 

と空想してウキっとなるゲームを始めた。

 

 

例えば、

 

電車で、オタクっぽい学生が隣の席に座ったら

 

「この人は僕のパソコンを修理してくれる人」とか

 

眼鏡をかけたスーツのおっちゃんが前を通れば、

 

「この人は僕のお金を管理する会計士さん」とか

 

若い女子が二人、カフェで話していたら、

 

「彼女達は僕のサイン会に来てくれたファンの子」

 

というふうに、ただ外見や雰囲気から妄想して、

 

ひとり、彼らの愛を感じながら悦に入るのだ。

 

 

最近では、知的で個性的な女性を見かけると、

 

「パリで僕の小説の朗読会を主催してくれる人」

  

とか、菅井きんみたいなおばちゃんだったら、

 

「お節介だけど面倒見のいい近所のおばちゃん」

 

また、

 

どのカテゴリーに入れればよいか分らない人は、

 

もう、全員僕の熱烈ファン、みたいな…。

 

それで、

 

カッコイイ人や、こんな人になりたいなあ、

 

と、憧れるような人に遭遇すれば、

 

ああ、あれは次の生でやることになっている自分、

 

とまあ、どこまで自分やねん、という感じで、

 

すごく楽しい。

 

 

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これって、

 

自分でもかなりイッちゃってると思う。

 

でもまあ、ブログも終わりに近づきつつあるし、

 

最後に読者の方々から、さあーっ、と、

 

ドン引きされて終わるのも悪くない。(笑)

 

 

しかしこの妄想ゲーム、

 

やればやるほど、自分の世界が愛で満たされ、

 

背後にウキっとした愛の感じが循環して、

 

本当にみんなが完璧な一つの愛の中に在る、

 

と実感できる。

 

 

なんていうか、

 

普段、あらゆる兄弟たちに対して感じている

 

何だかよくわからない〝愛の感じ〟を、

 

こういう形で意識的に捉えてみることで、

 

もっとパワフルに愛を感じることができる。

 

 

ただ、何度も何度も言うが、

 

肉体としての兄弟たちを見ているのではない。

 

無限の全体の〝ひとつ〟を、

 

それぞれの中に見ている。

 

 

要は、自分が創りだしている世界なので、

 

実際、その人がどうであるかは関係ないのだ。

 

そして、

 

ウキッ、ワクッ、キュン、な感じそのものが、

 

神という存在の在り方であり、

 

真実の自分の姿なのだ。

 

 

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謎の未確認生物

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👆最近スイーツ食べ歩きにハマっている

 これはリー・ガーデンのワッフル

 

 

人影(肉体)を見過ごして光の方(神)を観よ、

 

と、奇跡講座ではよく言われるが、

 

病気になったり、イライラしている自分や、または

 

攻撃してきたり、理不尽な振る舞いをしてくる

 

他者の人影を見過ごすのはなかなか難しい。

 

それには、

 

人影の中に自分や他者は存在しないことを、

 

知識ではなく体感で認識することが大切になる。

 

 

というのも、今日、電車に乗っていた時、

 

ある女性が、たまたま僕の向かいで、

 

スマホをいじっていたのだが、その時、

 

本来なら人格も主体もあるように見える肉体が、

 

木の上を這う昆虫やトカゲかなにかのように、

 

ただ体をくねくね動かしているだけの、

 

得体の知れない何か、に感じられたのだ。

 

その身体の中のどこにも〝その人〟は存在せず

 

意思も意識も持たずに、ただ動いているだけ、

 

ただ反応しているだけの何か、に見えた。

 

 

「なに、このにょろにょろと動く生物は…!」

 

と思った途端、この中には自分も他者もおらず、

 

全くの空っぽだ、と、はっきり知覚できた。

 

 

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👆 近所で買ったタピオカミルクティー
  〝香港人頑張れ〟の文字が…

 


 

あの人が怒っている、あの人が笑っている、

 

今日はお腹が痛い、彼があんなことを言っている

 

など、僕たちは、肉体の動き方(動作)を見て、

 

怖くなったり、愛されていると感じたり、と、

 

様々な解釈によって反応しているわけなのだが、

 

結局、肉体同士では何も伝えあってはおらず、

 

肉体の動きから、その人の感情を推し量り、

 

解釈しているようにみえて、実は、

 

自己の背後(内側)と他者の背後(内側)同士で

 

互いにコミュニケーションをしている。

 

 

最近の僕は、

 

1日の大部分を背後の内面で生きているので、

 

外に見える風景や、他人が何か言って来たり、

 

もしくは、自分で何か行動したりすることは全て

 

背後でやり取りをした結果のように見えている。

 

従って、自分の思いの結果を、映像として、

 

眼前に見ているだけなのだが、

 

その映像の奥に存在する〝ひとつの愛の輝き〟

 

に反応して、僕たちは、

 

愛し合ったり、憎しみ合ったりしている。

 

 

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「もうこんな世界にはうんざりなんだ、

 

    もう早く父が待つ故郷へ永遠に戻りたい、

 

     ここに神はない、自分はいま地獄にいるのだ」

 

という〝地獄経由〟からの、

 

「全部神だった、神しかなかった、

 

    自分は愛そのものだった、

 

    自分の本質は歓びそのものだった」

 

なのであった。

 

しかし、

 

これからはもう、地獄経由なんて必要ない。

 

直接神へとつながってゆけばいいと思うのだ。