香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

愛に任せる

👆とにかくこの人が越えてくれない限り

   日本の年は越せない!

 

 

謹賀新年!

 

あけましておめでとうございます!

 

本年が皆さんにとって良い年でありますように!

 

僕は、実家に戻っています。

 

紅白を見て、年越しそばを食べ、行く年くる年を見て、

 

と、穏やかな年越しを迎えております。

 

 

👆 ああ、くる!

 

そして、あの方は、今回もまた立派に越えてくれました。

 

もうお年がお年なので、いつまで越え続けられるのか、

 

ひやひやしておりましたが、ちゃんとイってくれました。

 

これで僕も、今年一年頑張れそうです。

 

 

👆 一回目、きたっ!

 

というわけで、新年には目標を立てたりするものだが、

 

僕の今年のテーマは〝心をこめる〟である。

 

自分が発する言葉、動作、表情、思いに心を込める。

 

別の言い方をすれば〝大好きをこめる〟である。

 

大好きの想いは、僕にとって、神の想いと同じなので、

 

それが、今この瞬間の神に在るのと同じ意味になる。

 

 

 

👆 ああ、二回目もイッたぁーっ!

 

しかしそれは〝心をこめよう〟とすることではない。

 

何かを実践しようとした時点で神からズレてしまう。

 

〝大好き〟そのものとして在る、ただそれだけである。

 

どんなときも、愛しているを放ち、響かせている。

 

もうこれだけで一年を突き抜けようと思っている。

 

 

👆 越え、た…!

 

 

そして、

 

どんな状況であっても、今のこの場所から、である。

 

仕事が嫌なら、その嫌な仕事を普通に心をこめてやる。

 

お金がないなら、こんなものしか買えない、ではなく、

 

買えたものに愛をこめて慈しむ。

 

嫌いな人には、このクソ野郎、のまま好きでいる。

 

僕で言えば、学校の授業、筋トレ、小説創作、を初め、

 

持ち物、食べ物、所作、見えるもの、聞こえるもの、

 

今この瞬間に立ち顕われてくる全ての場面を、

 

愛に任せて過ごすのだ。

 

これからどうしよう、ではなく、いまどうしよう、である。

 

そうすることで、

 

愛が循環し始め、起こるべきことが自然に起こり、

 

全く予想だにしなかった場所へと運ばれてゆく。

 

 

👆 フィニッシュ!

 

今年の大みそかに、

 

このブログにどんなことを書いているか、楽しみである。

 

多分日本にはいない気もするので、

 

今のうちに日本のあれこれを満喫するつもりである。

 

 

👇 過去の天城越えはこちら

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スピリチュアルが邪魔をする

👆僕が住んでいる所は堀川神社と天満宮の近くで

   明日から交通規制が行われるため

   大みそかは早々に実家へ避難する予定

 

 

会社で働いていた頃は、あっちゅーまに時間が過ぎ、

 

1日が18時間くらいに感じられたものだが、

 

ここへ来て、時間の経過が遅く感じられている。

 

特に12月は、なかなか時間が経たなかった。

 

これはどういうことなのか、と考えてみたところ、

 

24時間がまるまる自分の時間になったからだ、

 

という結論に達した。

 

 

会社や組織でオツトメをしている人にとっては、

 

人生の大部分を組織の中で過ごしていると思うのだが、

 

それはまた、人生の大部分の時間を、

 

本来の自分ではない自分で過ごしていることでもある。

 

なぜなら、

 

組織の中の個人は上からの命令によって動くので、

 

ありのままの自分で在ることは、ある意味許されない。

 

僕の場合、海外駐在ということもあり、

 

比較的自由に行動することができてはいたが、

 

それでも、命令された出張にはいかねばならず、

 

会いたくない人と会い、組織のルールに従いながら、

 

自分ではない時間を過ごさねばならなかった。

 

早く過ぎ去ってほしい時間はパターン化され、

 

心の入っていない時間は、さ、さ、さ、と過ぎてゆく。

 

それで、あっという間に年末、ということになってしまう。

 

それを、次元上昇で地球の時間が加速している、

 

などと言ってごまかしていた。爆笑である。

 

 

これはニーチェの言葉なのだが、

 

〝あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、

 

    現在でも奴隷と自由人に分かれる。

 

    自分の一日の三分のニを

 

    自己のために持っていない者は奴隷である〟と…。

 

 

僕は何にも属さない人間になってみて初めて、

 

この言葉の意味がしみじみ真実だと体感させられた。

 

なので、今の僕が時間の経過を遅く感じのは、

 

奴隷ではない時間を生きているからだと納得できる。

 

その反面、

 

檻から出ないことで守られる安心感もあるのは確かで、

 

どちらが正解か、と一概には言えない…。

 

 

まあ、そうは言っても、

 

家庭も子供もローンもない一匹狼の僕とは違い、

 

家族を養うために、やりたくない仕事もやるしかない、

 

という兄弟たちだってたくさんおられるはずである。

 

こういう時、奴隷にならない唯一の方法がある。

 

それは、腹を決める、ということだ。

 

奇跡講座?赦し?悟り?そんなのどうでもいい、

 

奴隷なら奴隷で結構だ、自分は家族を養うために

 

何があっても、俺はここでこうしてやってゆくのだ、と、

 

力強く決断して生きてゆくのだ。

 

自身の意志できっぱり腹をくくれたら、

 

それはもはや奴隷ではない。

 

 

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全てはお任せ、それでも同僚を愛で見よう、

 

本当の自分はすでに愛される存在だ、というような、

 

〝言い聞かせスピ〟が苦しみを継続させている。

 

 

こんなの嫌だあー、あいつ大っ嫌い、ムカつくうーっ、

 

と本音の自分が叫んでいるのに、

 

いや、全て聖霊にお任せで自分は何も知らないんです、

 

それでも同僚は愛なんです、罪なんてないんです、

 

本当の自分はすでに愛される存在だ、というような、

 

思ってもいない言葉でごまかそうとしないこと。

 

それが、自分を愛する、自分を大切にする、

 

ということの意味である。

 

 

こんな嫌な自分で上等、と腹を決めてやってゆくのだ。

 

そうすると、皮肉なことに、相手が愛に変わったり、

 

苦しみや憎しみが大好きに反転してしまったりする。

 

 

なぜかというと、腹を決めれる、ということは、

 

ある意味、自分の腹の底の本音を知覚し、

 

受け止められている証拠でもあるからだ。

 

 

なんか、時間が遅く過ぎる、という話題から、

 

ヘンなところまで来てしまった。

 

というわけでおやすみなさい。

 

 

 

脱力水曜日

 

 

 

日本語教師の学校も今日から正月休みとなった。

 

日本語史の試験もようやく終わり、やれやれだ。

 

それで、今日は買い物に行ったり何やかやしよう、

 

と思っていたのに、一日眠りほうけてしまった。

 

試験が立て込んでいたのと、ヴィンセントが来たりして

 

知らないうちに気が張っていたのだと思う。

 

それに、台湾の出版社に見せる小説を中国語に

 

翻訳していたのもあり、疲労がたまっていたのかも。

 

で、全身から力が抜け、ベッドから動けなくなった。

 

 

ふわふわとした夢うつつの中、

 

自分の肉体が素粒子の波のように分解され、

 

空間に溶けてゆくような感覚を感じていた。

 

粒子の波が湧きたつように立ち顕われては消えてゆく。

 

その湧き立つ振動が無限の速度で繰り返されながら、

 

粒子の塊りとしての自分の肉体を存在させ続けている。

 

意識も同じく、様々な思いが湧き立っては、

 

湯気のように消えてゆく。

 

 

この時はあまりに疲れていたので、

 

明日これをしなければ、とか、これからどうしよう、

 

という方向へ思考が行かなかった。

 

窓から差し込む明るい日差し、暖かな室内、

 

ただ、もわもわふわふわ、この瞬間にたゆたっていた。

 

 

 

 

やがて、

 

素粒子の粒粒(原子や電子)を生み出す元となる部分

 

何もない部分(無限の全体)が智覚されてくる。

 

そこは変化することのない無条件の愛に満ちていて、

 

絶対に解釈不能な領域だ(領域というより全てである)。

 

 

個の自分の意識が捉えた感情に従って、

 

無限の全体(量子真空)が量子を湧き立たせ、

 

様々な感情や出来事や人や物質を立ち顕わす。

 

愛を思えば愛のフォトン(光子)が湧き顕われ、

 

罪悪を思えば罪悪のフォトンに満たされる。

 

もともとが愛なので、何を思おうと愛しかないのだが、

 

無限の全体(神)に気づいていない僕たちは、

 

それらを歪めて解釈してしまうため、

 

どうしても分離感と無力感を持ってしまいがちだ。

 

しかし本当は神(無限の愛)にしか満たされていない。

 

全ての人や物や想いの素粒子は、神でできている。

 

 

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夜、11時ごろになってようやくベッドから這い出し、

 

風呂に入ってから、冷凍餃子の遅い夕食をとった。

 

身体がシャンとしてくるに従い、

 

懐かしい世界から戻ってきたような悲しさに襲われた。

 

今日は一歩も家から出なかったけれど、

 

ものすごく広大な世界を旅したような一日であった。