☝これで一本筋の通った男だと
思ってもらえるか?
今日は仕事終わりに髪を切りに行った。
もう、二カ月近く散髪をしていなかったので、
ま、いっか、とそのままにしていたら、
前髪が聖子ちゃんカットみたいになってきて、
同僚の日本人からも、
年取った〝ひかる一平〟みたいだと言われた。
で、今日、担当のスタイリストさんから、
上部の髪はこのまま伸ばし続け、
来月のクリスマス辺りにパーマをかけて、
アッシュ系に染めましょう、と提案された。
それ、乗った!
新年だし、風の時代だし、髪もまだあるし…。
帰りしな、来月19日の予約も入れた。
パーマなんて本当に何年ぶりだろう。
高校生の頃にパンチパーマをかけて以来だよう。
また、ここで写真をアップするので乞うご期待!
話は変わり、赦しとは究極のリラックスである、
と思う今日この頃である。
よく、赦しにおいて、兄弟を裁かずに見る、とか、
神以外の解釈だけが問題だった、とか、
判断せずにただ見過ごす、と言ったりするが、
よく考えてみると、
判断しないでいようと思った時点で、
判断しない、ということを判断しているわけで、
いったいどういうこと?
と、ひとりナゾに思っていた。
それである時、兄弟を裁かず、現実を解釈せず、
物事を判断しないってどういうときなんだろう、
すなわち、赦せている状態って、
どういう感じの時なんだろう、と考えてみたら、
あれ、ひょっとしてこれって、
究極のリラックス状態にある時なんじゃないか、
と閃いたのだ。
夕食後の満腹状態でベッドに大の字になり、
「ああ、極楽、極楽~!」とやっている時、
マッサージをしてもらいながら、
「ああ、気持ちいい~!」と至福を味わっている時
大好きな人と一緒にいて、
「ああ、しあわせ~!」と安らぎを感じている時、
僕たちは、
心からリラックスしていて、全てを赦せている。
また、その瞬間、判断している自分はおらず、
〝愛〟という神の解釈の中だけにまどろんでいる。
ご飯を食べて満腹だから極楽、とか、
マッサージをしてもらっているから気持ちいい、
ではなく、そのくつろいだリラックスの感じだけに
焦点を当てていると無限の全体が感じられる。
こんな風に、最初は、
自分をリラックスさせる何かをきっかけにして、
神の中へ入って行けばいいと思うのだ。
「ああ、リラックスリラックス、ぷっはーっ」
とやっているうち、
赦せている側がメインになってきて、
赦しどころ、な場面が来ても、
この〝優しい愛の感じ〟に戻ればいいんだ、
と解かる。
苦しみながら、
修業のように実践する赦しなどあり得ない、
と僕は思っている。
なぜなら、神や聖霊兄貴は愛に満ちており、
故に、故郷へ戻ってゆくための赦しが、
優しいものであるのは当然だと思うから…。
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