香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神でいっぱい!

👆 1年ぶりに香港競馬場でランニング

  

 

部屋に出てくる兄貴と夜な夜なお喋りをしている、

 

というだけでも相当ヤバい奴なのに、この上、

 

最近モノが語りかけてくる、などと言ったらもう、

 

コイツ完全にイッちゃってると思われても仕方がない。

 

 

👆 残ったプチトマト

 

 

スーパーで買ってきたお弁当を食べていたのだ。

 

最後、僕の苦手なプチトマトだけが残った。

 

このまま捨てようとしたら「えへへー」と笑いかけてきた。

 

見れば、トマトが嬉しそうに、いいよいいよと言っている。

 

仕方なく食べたら、すっごく甘かった。

 

また、

 

ホテルに備え付けてあるドリップコーヒーを飲もうと、

 

くっついているフィルターを引っ張って開けたら、

 

珈琲の粉がバーンと飛び散ってしまったのだ。

 

瞬間、コーヒーの粉が「キャッキャッ!」と叫んだ。

 

その他にも、

 

キーホルダーを床に落としたら、ウヒャッ、と声を上げ、

 

汚れた運動靴が僕に履かれて嬉しそうに笑っている。

 

 

👆 落としたキーホルダー

 

 

 

そういうふうに感じる、というようなレベルではない。

 

本当にそう聞こえ、そう見えているのだ。

 

もちろん兄貴のように言葉で会話をする訳ではないが

 

あらゆるモノが、僕にかまってもらいたがっている、

 

というか、何をされても悦んでいる赤ちゃんみたい。

 

 

台北で新しい靴を買ったので、履いてきた靴は、

 

汚れているし、荷物になるので、

 

香港に捨てて帰ろうと思っていたのだが、

 

靴を履いた時の歓ぶ姿を見て、持ち帰ることにした。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

床に落ちている小さな塵ですら奇蹟の光で輝いている。

 

全てのモノが兄貴になっちゃった。

 

モノの中に神や兄貴が〝宿っている〟のではなく、

 

モノそのものが神であり兄貴となってしまっている。

 

 

あらゆる人、物、事に愛され、護られている感覚。

 

そして、その正体は神だった。

 

何かを成す必要もなければ、証明する必要もない。

 

ただ存在しているだけで愛はここに在るのだった。

 

 

どうやったらそうなるのか?

 

自分を徹底的に愛したらそうなった。

 

 

というわけで、長い旅を終え、日本へ戻って来た。

 

荷物を片付け、洗濯物を乾燥機に放り込んだころ、

 

兄貴が現われ、少し長い時間、話をした。

 

そこで、あることを告げられた。

 

それは自分でもそう思っていたことなので、

 

今回は抵抗なく受け入れることにした。

 

詳細は次回の記事にて…。

 

 

 

みんな神だった!

 

 

コン親方のマッサージを終え、外へ出た。

 

書き物をしようと、いつも通っているカフェへ入った。

 

パソコンの電源が確保できる席に他の人が座っていた。

 

「こいつジャマ。こいつさえいなければ…」

 

と思った瞬間、別の声が聞こえてきた。

 

「この神ジャマ。神さえいなければ…」

 

 

 

👆 神がコーヒーになって歓んでいる



兄弟のように見えていたものは、全部神だった!

 

「こいつ、めちゃイラつく」は、神にイラついている。

 

誰かと言い合いになって罪悪感が出てくるのも、

 

本当は神と言い合いをしているからだ。

 

オセロの黒が、一斉に白へとひっくり返っていくように、

 

全てが神だったことが思い出されてきた。

 

僕は、

 

電源が確保できる席に座っている人の隣に腰掛けた。

 

神が僕の隣に座っているのだ、と思ったら、

 

ものすごい愛が込み上げてきた。

 

 

 

👆 神がいっぱい!

 

 

テーブルも、コーヒーも、お客も、みんな神だった!

 

自分は神に囲まれていたことに驚愕する。

 

逆の言い方をすれば、神を思い出すために、

 

全ての人や物や事が存在しているのだった。

 

そして、それらは存在しているだけで、愛だ。

 

床に落ちているゴミでさえ愛なのだった。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

あらゆるものを映し出しているベールの裏に、

 

神の想いが流れている。

 

そして、その想いはいうまでもなく、無条件の愛だ。

 

自分が椅子を見て何かを思うと、自我の投影となり、

 

椅子から放たれる愛を感じると、神の反映となる。

 

そして、神を感じている自分自身もまた、神だった。

 

 

 

 

存在すること以外、何もしなくてもいいのだ、と思った。

 

何かになる必要も、何かを証明する必要もない。

 

今に抵抗せず、ただ存在しているだけで完璧なのだ。

 

 

数日前、台湾で二人の台湾人と喧嘩をした時も、

 

実際、僕は神と喧嘩をしていたのだった。

 

だが、神と喧嘩をするなんて、という風にはならない。

 

喧嘩をしながら、愛を感じて歓んでいる。

 

今に開いてそのままの流れを受け容れて何もしない、

 

とはそういうことなのだ。

 

 

 

 

 

カフェの帰り、香港島を眺めながらワインを飲んだ。

 

海岸通りは、大陸の観光客でものすごい人出だった。

 

今この瞬間、ただ、神に開いて存在していた。

 

もう自分はどこへも行かない。

 

 

 

神を思い出す

👆 コン親方と…

         仕事の時以外は、いつも半分寝ている

 

 

今日はコン親方の所へ2度目のマッサージに行った。

 

彼の指圧には、中国三千年の歴史が詰まっている。

 

細胞の中に〝氣〟を入れるように揉まれるので、

 

波動が浸透していくようで、チョー気持ちいいのだ。

 

指でぐりぐりやられている部分に意識を集中させると、

 

ヴィパッサナー瞑想をしているような境地に入る。

 

なんていうか、細胞の奥にこびりついた負の想いが、

 

ひとつひとつ解体されてゆく感じ。

 

とはいえ、コン親方もすでに79歳になるので、

 

いつまでこのマッサージを受けられるかわからない。

 

だからもう、ここぞとばかりに、

 

全力で自分の肉体(宇宙)を感じることに集中した。

 

 

👆 日本にも〝修脚〟(足の裏の角質取り)

         があったらなあ

 

 

そうこうしているうち、あるイメージが舞い降りた。

 

この肉体は、完璧な無限の全体が反映されたもので

 

肉体は宇宙そのものである、と…。

 

そして他者とは、その肉体の細胞一つ一つが

 

外側へと無数に投影された姿であり、

 

どんなにイビツで不完全に見える他者の肉体も、

 

かけがえのない完璧な宇宙のピースであり、

 

ひとつ欠けても成り立たない。

 

故に、目の前に現われる全ての他者は、

 

自分の肉体(宇宙)の一部であり、全体なのだ。

 

そして、肉体は〝無限の全体〟と同じものだった。

 

無数のピース(細胞)によって全体を成している。

 

なので、コン親方の指圧は、ある意味、

 

無限の全体を認識(智覚)してゆく作業であり、

 

ゼロポイントへ意識を戻す作業なのだと言える。

 

多分、ヴィパッサナー瞑想も同じ原理なのだと思う。

 

 

こうして、

 

今に開いて抵抗せずそのままの流れを許容していると

 

自分は存在しているだけで完璧だったんだと分かる。

 

すごい仕事をしなくても、結果を出さなくても、

 

存在するだけですでに愛であり、神だったのだ、と…。

 

そして、他者もまた、そのままで〝神〟だった。

 

逆に言えば、神を思い出すために他者を見ている。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

心の中に恐怖があると、じっとしていることができない。

 

行きたくない場所へ行って、したくないことをしたり、

 

万が一に備えて、様々なものを購入したり…。

 

行動することで、自己の存在を忘れようとする。

 

それは結局、神を忘れようとしているのだ。

 

 

存在することだけに委ねていると、

 

何かに導かれるように、別の行動が生まれてくる。

 

今後は、何かに〝なる〟のではなく、

 

〝在る〟ことで自分を表現してゆこうと思う。

 

今回の旅は、

 

その準備のための旅だったような気がする。

 

コン親方、ありがとう!