以前の僕は、
個の自分なんて存在しないんです、
全体(実相/一なる神の子)しかないんです、
肉体の自分が故郷へ還るのではないんです、
という観点から、この星谷周作という自己は、
幻想で無なので、それは消えてゆくべき存在だ、
と、考えていた。
もちろん、
星谷周作は幻想であることに変わりはないが、
ただ、そう思う一方で、
じゃあ、好きな歌手の歌を聴いて号泣している
自分もまた無なのか、
恋人やパートナーや息子や娘を、
たまらなく愛おしく思うのも分離なのか、
心のこもった料理を食べたときに感じる喜びも、
自我から来ているものなのか、
もっと言うと、誰が赦しを実践しているのか、
肉体である個の自分が幻想なのであれば、
一体、どこにいる誰が、
愛を感じて歓んでいるのだろう、と、
疑問に思っていた。
そして、無限の全体に繋がった本当の自分は、
すでに個の肉体の自分ではなく、愛そのものので
全一な存在だったことを思い出すにつれ、逆に、
肉体としての個の自分も全部ひっくるめて、
神の顕れだったんだ、という理解が起こった。
いたるところ、神が〝顕われ〟ている。
だから、肉体なんて幻想で実在ではない、
だから何を感じてもそれはない、とやってしまうと
神の顕れを拒絶することになり、余計苦しくなる。
僕の場合、
個の自分を、夢の中に顕われている神だ、
と捉えるようになってから、すごく楽になった。
個の肉体として苦しんでいるように見えている、
一切の葛藤や苦しみも、神が顕れているんだと、
優しく無限の全体へと返してゆけるようになった。
少なくとも、自分に優しく寄り添えるようになった。
すると、普段目にするあらゆるものの背後から、
神の光を目撃するようになった。
とまあ、そんな感じで、連休4日目もまた、
夜通し、映画を観たり、小説を書いたりして、
眠ったのは朝の6時だった。
それから、午後3時に起きて、うだうだしている。
こんなの一人暮らしでなければ絶対不可能だ。
そういう意味で、
人の目や思いを一切気にしなくてよい空間を
確保するために一人暮らしをしている気がする。
外で何があっても家に戻ればリセットできるから。