自分が今見ている現実の映像は過去なんだ、
自分は今、過去の映像の中を生きている、と、
しみじみ感じながら佇む初春の夜である。
自分が過去に思った〝想い〟が今現れていて、
それはすでに決定済みのものだ。
であれば、
〝今〟をいじっても無駄だということになる。
これはまた、別の言い方をすると、
今、自分の心の中で何をどう〝感じる〟のか、
今、どんな意識状態で在るのかが、
少し先の〝今〟に、
顕われてくるということでもある。
だから、前側に現れる過去の想いの化身を見て
不安や恐怖や怒りを感じるのではなく
常に見えない側に意識をむけていること、
背後の領域を、
優しい愛の想念で満たしてやることが、
とても重要になってくる。
でないと、
〝過去に感じたことの結果〟である映像を見て
ふたたび、過去と同じような感じ方をすれば、
再度同じ映像を
繰り返し見るハメになってしまうからである。
なので、日常(今見ている現実の映像)の中で、
不安、恐怖、怒り、やるせなさ、などを感じた場合
先ず、これは過去に感じた自分の思いが、
今、現れている結果にすぎないことに気づいて、
意識をさっと背後の無限の全体側(内側)へ向ける。
それが、
神を思い出している、神に気づいている状態である。
僕の場合、
起こっている映像を見て嫌な気分になった時、
誰かから優しくされた時の感謝の想いや、
楽しい時を過ごしている時の歓びの感覚、
美味しいものを食べた時の至福感を思い出し、
それを呼び水として、背後の神へと向かう。
その愛の感じ、神に愛されている感じが、
やがて、背後(ハート/見えない側)を通って、
現実のスクリーンの裏側から顕われてくる。
現実を変えるためにそれをするのではなく、
神が在る感じを認識するためにやる。
まあ、その甲斐あってか、
僕が見ている〝過去の今〟の映像には、
優しい父や兄貴の愛が満ちている。
というわけで、香港もだいぶ暖かくなってきた。
長そでのワイシャツ一枚でちょうどいいくらい。
今日、タイムズスクエアのGUCCIで、
ドラえもん入りのバッグや靴を売っていた。
大金はたいて一体誰がこんなの買うんだろう、
と思いつつ、これを持ったらウケるかな、
と、一瞬欲しくなった自分に怖くなった。
これも、
過去の自分の想念が今、具現化されているのか。