今日は、
スマホの表面に保護フィルムを貼ってもらいに、
ワンチャイまで行ってきた。
帰りに、近くに住む香港人の友人を呼び出し、
リートンアベニューでランチをした。
キンキンに冷えたドイツの生ビールと、
ハンバーガーのランチ、ああ、至福すぎる!
でも、マクドのハンバーガーとかなら、
そのまま、かぶりつけばいいが、
こういうハンバーガーってどうやって食べれば
いいのかがイマイチわからない。
それから、おしゃれスポットとして有名な
リートンアベニューも、閉まっている店が多く、
やはり、飲食業は大変なのだな、と実感した。
というわけで、両手で神を知るシリーズ第3弾!
(まだやるんかいっ!)
で、土曜の昼間からドイツビールでぷっはー、
となりながら気づいたのは、
スピでよく言われる〝手放す〟というのは、
くっつけ合っていた両手を離す(放す)、
という意味なのではないか、と思ったのだ。
両手をくっつけ合っていることで、
思いの押しくらまんじゅうが起こり、
ハンドウェーブで思いが行ったり来たりする。
なので、意識を手首側(背後側/自分側)へと
向けていくことにより、合わさっていた掌が離れ、
世界が消滅してゆく。
そういえば、合掌しているときって、
互いの手を押し合うことで成り立っているし、
絶対にどこかに力が入っている。
いわば、
合掌を解くことが抵抗をやめることなのだ。
そして、自分が先手となって動いている意識、
背後の見えない世界がメインとなっている状態、
自分が選択したことはどんなことも神の選択だ、
と、自信を持って知覚できている日常こそが、
両手を離している状態、合掌を解いてる状態、
世界を赦している状態なのだ、と言える。
ひとつ前の記事で、
ふうさんもコメントされているように、
肉体の構造もそうだけど、この世界って、
すべて神の模造なんだ、と思った。
なので、戻ってゆくときは、
見えているものから始めるのもアリだな、
と感じた。