👆 ジムで、高校野球を観ながら、走る。
ああ、日本の夏、金鳥の夏!
でも、スタミナ切れで20分で終了!
でも、220kcalを兄貴に捧げ切った!
(何でやねん!びっくりするわホンマ!👈兄貴)
過去や未来を赦す、世界を赦す、というよりも、
今はもう、すでに赦されていることが明白になり、
赦そうとする自分さえ捧げ切っているという感じである。
もちろん、過去の後悔や未来への不安などといった、
様々な動揺や葛藤は普通に顕われてくるが、
それを赦すのでもなければ、明け渡すのでもなく、
ただそれそのまんまで、直に捧げ切られている。
いつからこんな感じになったかというと、やはり、
今年の春節の休暇中に、思いつきでやってみた、
〝6日間完全自宅お籠り24時間完全落ち切り修練〟
の直後から、見えている様子が明確に変わった。
二月の初旬で寒い季節だったし、コロナ禍の香港では、
飲食店も娯楽施設もジムも、みんな閉店していたので、
お籠り、というか、おうち修行にはもって来いだった。
6日分の食料を買い込み、スマホやパソコンをしまい、
時計の電池も抜き、WIFIも使えないようにして、
一日16時間くらい、ただソファに座り、
今この瞬間の見えているもの、聞こえているもの、
感じているもの、あらゆる過去や未来の想い、などを
落ち切ったところから捧げる、ことをやっていた。
(終わったあとから文字にするとこんな感じになるが、
実際には、捧げようという意図を持つ自分すらもなく、
ただ薄目を開けたままソファに座っていただけである)
やってみて、3日目くらいまではもう地獄だった。
落ち切ったところから世界を見るどころか、
あの時、ああしていれば上手くいったのに、とか、
将来こんなヤバいことになったらどうしよう、といった、
妄想劇場からくる動揺や葛藤がガンガン襲ってくる。
スマホもパソコンもWIFIのルーターも時計も、
鍵のかかる引き出しに入れたのは正解だった。
このときもし、スマホの着信音がピロリン、
とでも鳴ろうものなら、一発で飛びついていただろう。
苦しさがピークの時でも、そこから逃げず、
その動揺を相手にせず、ただ捧げ切っていると、
瞬間瞬間、全てが変化しながら赦され決着する様が、
パーンと明らかになり、わわわーん、となった。
(※すんません。表現できないので擬態語です)
こうして6日間を終え、ふたたび日常に戻った時、
ああ自分が戻った、と思った瞬間、その思いさえも、
相手にせず捧げ続けたら、
「あんた、そこに『ほにゃらら』はあるんか?」
というアイフルの大地真央の声が聞こえ、
「え? そんなもん、どこにもないっ」となって、
再度、ほへほへほへーっ、と脱け落ちてしまった。
(※言葉では表現できないので擬音でごまかす)
👇「女将さん!おおきに!」
下の映像の中のフランス映画編が面白すぎ!
まさに僕の兄貴もこんな感じで突然顕われる
このいきなり出現感が兄貴にそっくりである
「何やっとんねん!」という感じである
その直後、すでに悟られて決着されている、
ある高僧のウェブ禅会に参加する機会があった。
その際に、この6日間で体験した境涯を話したら、
「あなたはいま、私が指し示している方向そのもの
でちゃんとおられるので、それでもう大丈夫なので、
そのまま余計なことはせず(余計な発信などはせず)、
普通にその境涯の中で暮らしてみてください」
と言われたのだった。
余計なことをするなと言われながらも、
こうしてブログを書いているのだが(👈破門じゃ!)
あれから半年近くが経ってようやく、
その時、悟った高僧から言われた、
「余計なことはせずしばらく普通にしていなさい」
の真理が明らかになってきた。
様々なことが起こる日々の営みの中に在っても、
捧げ切った安心感、何があっても大丈夫感でいられる。
それは、心境とか境地ではなく、それそのものである。
それは奇跡講座に置き換えていえば、
ガチで半端なく徹底して100%、その瞬間瞬間に、
自分に起こる様子の全てを、兄貴に捧げ切って、
委ね切った際にはっきりする、
救われ切った様相に〝似ている〟(👈ここポイント)
捧げ切るとは、出てくる全て、見えている全てを、
即座に距離ゼロで、兄貴に開いていることであり、
何かを失なったり、何かをしなくなったり、
何かを変えることではない。