👆 いつもコーヒーを買う焙煎店
ご夫婦の歴史がうかがえる穏やかな波動
ここでも大好きが止まらない
年末に向かってまたまた〝大好き〟が爆発している。
(別に年末に向かわなくてもよいのではあるが…)
街行くサラリーマンの人、ミニスカートで歩く女の子、
クラスメート、ジムで会う人、店員さん、のみならず、
自分のメガネ、今日食べたお弁当、音楽に至るまで、
見るもの、聞くもの、全てに〝好きだよ〟が走っている。
だがそれは、
有難うございます、という感謝の気持ちでもなければ、
全てが愛なんです、といった全能的な感覚でもない。
なんていうか、有難うございます、全てが愛、であれば、
相手が愛や感謝ではないことを自分にしてきた場合、
それでも愛、それでも感謝、となってしまいがちだが、
そんな感じではないのである。
このおっさんムカつく、この女何言うてんねん、
こいつシバいたろかのままが〝大好き〟なのだ。
それでいて、
肉体としての人、物質としてのモノ、などに対しては、
爬虫類のような得体のしれない生き物が動いている、
物や音が、突然、目の前に現われては消えてゆく、
というような、無機質な感覚として捉えられている。
〝大好き〟の本質は個人としての誰々さん、とか、
モノや音の中にはないのである。
👆 喫茶店、洋食屋、靴屋、手焼き饅頭店
南森町にはこういった老舗の店舗が多い
それぞれの人や物や事に違いは見ているのだけれど
でもやっぱり同じもの、として認識されている。
例えば、
君はすき家の牛丼が好き、僕は吉野家が好き、
しかしそれを食べた時に感じる〝美味しいなあー〟
という感覚は同じ、みたいな…。
また、
あの人はK-ポップが好き、自分は演歌がが好き、
でも、その音楽を聴いた時の感動は同じ、みたいな…。
すき家と吉野家の牛丼、其々の牛丼を食べた時に、
舌が感じている味そのものは、皆、同じだと思うのだ。
ただ、それに対する感じ方が違っているだけで、
どちらかを食べて「好きぃっ!」と感じる
〝想い〟自体は全く同じだと思うのである。
なので、多分僕は、
空間の裏側に共通して走っている
普遍の〝好き〟という想いを、
あらゆる違っているように見えるものに感じている、
と言える。
というわけで、年末である。
日本で過ごす初めての年末年始。
僕が住んでいる所は堀川戎神社の真ん前なので、
大晦日はカウントダウンや初詣のひとたちで
身動きできない状態になると思われ、
早めに高槻の実家へ戻る予定である。
それでこの年末年始は、
奇跡講座のテキストをもう一度読んでみようかな、
と思う今日この頃である。