香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

代替に神を感じて喜んでいる

 

 

異性の誰か、同性の誰か、友、推しの歌手、ペット、

 

何でもいいのだが、誰かのことを好きになったとき、

 

じゃあ、どうしてその人を好きだと思ったのですか、

 

と訊かれたら、みなさんはどう答えるだろうか。

 

外見が好みだった、笑顔が素敵だから、優しいから、

 

自分が困っていた時に助けてくれたから、

 

歌やステージで愛と感動を与えてくれた、などなど、

 

いろいろ言葉で表現することはできるのだろうが、

 

じゃあ、年取って外見が変わったら、ケンカしたら、

 

次困った時に助けてくれなかったら嫌いになるのか、

 

と言われれば、決してそうではないはずだ。

 

絶対に言葉では表現できない、好きっ、という感じ、

 

なんだか嬉しくて、切なくて、キュンキュンする感じ、

 

胸が締めつけられるような、広がってゆくような、

 

理屈ではない愛おしさを〝好き〟と表現している。

 

この理屈ではない感覚、それがハート(神)である。

 

そしてそれは、美味しいものを食べた時に感じる、

 

「ああ、シアワセーっ!」という感覚、

 

大好きな人と愛し合っている時に感じる、

 

「ああ、気持ちいいーっ!」という法悦感、

 

大好きな歌手の歌を聴いている時に感じる、

 

「ああ、癒されるぅーっ!」というホッとする感じ、

 

と同じものであり、同じハート(愛)からきている。

 

 



 

今この瞬間に見えているそのもの、

 

聞こえているそのもの、味わっているそのもの、

 

である愛を、ほとんどの人は、大好きなあの人、

 

好物のあの食べ物、あの歌手のあの歌、

 

という代替を通して味わっている。

 

そして、絶対に言葉で言い表すことができない

 

普遍の愛の感覚を、間に何のクッションも置かずに

 

直(じか)に感じていることが、兄弟に信を置く、

 

今この瞬間の顕れに委ねる、の意味である。

 

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大好きなあの人、好物のあの食べ物、

 

あの歌手の歌がハート(愛)なのではない。

 

呼び水は単なる呼び水であり、幻想である。

 

そして、呼び水は幻想であるが故に、いつかなくなる。

 

呼び水の事象の中に神を見いだして満足していると、

 

もし、愛する人が死ねば、神もいなくなり、

 

もし、好物を食べられなくなれば神も感じられなくなり、

 

もし、耳が不自由になって歌が聞けなくなったら、

 

愛も聞こえなくなる、ということになる。

 

 

例えば、

 

長年連れ添ったパートナーや家族やペットを亡くして、

 

巨大な喪失感にさいなまれ、長年苦しむ人がいる。

 

しかし、肉体という呼び水は消えても、

 

その人を強烈に愛おしいと思う人智を超えた感覚は、

 

今も変わることなくずっと〝ここ〟に在るはずである。

 

その時自分は、

 

肉体としてのその人を愛していたのではなく、

 

愛おしいという不変の〝感じ〟そのものを愛していた、

 

ことをはっきりと理解する。

 

なぜなら〝その感じ〟自体が〝神〟なのだから…。

 

 

2025年7月5日について

👆 たつき諒のマンガ『私が見た未来-完全版』

 

 

奇跡講座や非二元や悟り系やバシャール系スピ?

 

のブームがひと段落してしまったいま(笑)、

 

最もホットなスピ系の話題と言えば、何といっても、

 

2025年7月に起こるとされている大災害説、だろう。

 

 

ユーチューブのおすすめにやたら出てくるので、

 

ちょっと興味をもっていろいろと調べてみたところ、

 

もともとは、

 

2011年3月の東日本大震災を的中させた、

 

漫画家のたつき諒という人が、復刻版の書籍で、

 

2025年7月5日に大災害が起こると予言したのと、

 

やすえ先生という物理学者が、

 

来年、フィリピン沖に隕石が落下し、大津波が起こる、

 

と科学的根拠をもとに発表したのがきっかけで、

 

一大ブームのようになったらしい。

 

こうして大災害説が盛り上がりを見せるようになると、

 

南海トラフ地震、富士山噴火、太陽フレア、などの

 

「ビジョンが見えた」「メッセージが降りてきた」(笑)

 

と、いろんなスピ系ユーチューバーが言いだし、

 

再生回数を稼ぐようになった。(爆)(爆)

 

 

ただ、ホピの予言や、のぶみナンチャラの中では、

 

来年、青く丸い石が空から落ちてくるという予言や、

 

ある子供が、自分が13歳になった夏の土曜日に、

 

自分は水に流される、とお母さんに言った、

 

というエピソードが、ブームの前からあったのも事実だ。

 

 

しかし、量子物理学者の予測だと、

 

もし、その大災害が本当であるとしても、

 

災害はごく軽度なものに留まるだろう、ということだ。

 

なぜなら、

 

「来るぞ、来るぞ、2025年7月に来るぞお!」と、

 

多くの人たちが意識を集中すればするほど、

 

観察されれば消える、という量子の法則により、

 

それは起こらなくなる、というのだ。

 

よく、今回すごい台風が来るぞお、備えねばーっ、と、

 

大騒ぎした時に限って、来た台風がショボかったりする。

 

1999年7月も、2012年12月もそうだったし…。

 

そして、結局、この説で正解なんだと思う。

 

 

僕が思うに、こういった人類滅亡説の盛り上がりは、

 

仕事が辛い、人間関係がしんどい、生活が苦しい、

 

孤独で寂しい、といった人達の意識の底に流れている

 

この世界さえなくなれば自分は楽になれるのに…、

 

という願望の裏返しからきているような気がする。

 

 

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僕もまた、12年くらい前までは、こういった、

 

アセンションが来て世界が変わるぞ、的な話を聞くと、

 

ワクワクするような人間だった。(働かなくていいから)

 

しかし、今は、何もする必要がない、と智っている。

 

 

というわけで、来年の7月5日は、

 

海外で過ごそうと思っている。(!笑!)(👈ウソ!)

 

 

別にええわ!

👆僕の小説はまず中国語で書いてから、

  それを日本語に直すのでやたら時間がかかる

 

〝もう二度と会わへん人やし、どうでもええわ!〟

 

〝これ、バーゲンで買った安物やから別にええねん〟

 

〝好きでやってるんちゃうし、テキトーにやっとこ…〟

 

〝この人がいなくても、別に困らへんし、ええかっ〟

 

〝関わりたくないから知らん顔しとこ…〟

 

 

今この瞬間瞬間の縁(えん)に触れて、僕の眼前に、

 

次々に立ち顕われてくれている人や物や事がらたち…。

 

時には優しく、時には厳しく、

 

時には美しく、また、時にはみずぼらしい様子で、

 

時には喜ばせたり、時にはがっかりさせたりしながら、

 

それでも、愛をたずさえて、

 

ニコニコしながらやってきた神たちを、僕はこれまで、

 

どれだけぞんざいに、ゴミみたいに扱ってきたことか。

 

そのことを思い知って愕然となり、全身が震えた。

 

いま淹れたコーヒー一杯をも大切にしていないのに、

 

感謝すべきご縁なのに、別にどうでもええわ、と、

 

斜に構えてふっふーん、とふんぞり返っていた。

 

偉そうに、何が小説や、何が赦しやねん、と思った。

 

もちろん、自分自身に対して、である。

 

 

「もう二度と会わない人だし」「バーゲンで買った安物」

 

「何のメリットもない」「また次がある」というのは、

 

過去や未来を軸にした〝解釈〟から来ている。

 

今この瞬間に出てきている人や物や事がらたちは、

 

今この瞬間に顕われ、即行で死んでゆくがゆえに、

 

まっさらで、何の意味も含んでいない。

 

だからこそ、どんなにちっぽけに見えるようなモノでも、

 

大切にあつかうべきなのだ。

 

 

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ただ、誤解を避けるために説明しておくならば、

 

どんな人に対しても慈しみの心を以って接する、とか、

 

食べ物は残さずに食べ、衣服も捨てずに最後まで着る、

 

とか、丁寧に日々を過ごそう、みたいな、

 

道徳レベルのことを言っているのではない。

 

また、今この瞬間瞬間を慈しんで生きる、とか、

 

全ての物事に顕れている神を見る、というような、

 

実践スピリチュアルの様なことを言いたいのでもない。

 

そういうことではなくて、不味かったら捨ててもいいし、

 

この人苦手、と思えば、離れていい。

 

相手に言うべきことがあるのなら言えばいいし、

 

嫌だったら、嫌だ、とはっきり断ればいいのだ。

 

たぶん、理解してもらえないと思うのだが、

 

それが、人や物を大切にあつかう、ということである。

 

なぜなら、そこには、「別にどうでもええわ!」

 

「まあ、ええか!」「関わらんとこ!」というような、

 

自分を正当化するためにスルーする、

 

といった〝ずるさ〟がないからである。

 

 

もう二度と僕は、兄弟や物たちを、言葉を、思いを、

 

決してぞんざいには扱わない。

 

なぜなら、それが僕自身であり、兄貴なのだから…。

 

今この瞬間に顕れている光をちゃんと観止めるのだ。